日清戦争の10年後に発生した日露戦争(1904-1905 明治37-38)。
当時日本はロシア南下政策にかなり脅威を感じていました。
すなわち、漸く勝ち得た朝鮮半島が取られる可能性、三国干渉により取られた遼東半島を露清密約により租借し、そこからの日本攻撃の可能性、義和団の乱の収拾と称し満州へロシア出兵等です。
しいては日本がロシアの植民地となる可能性ありと。
国内では対露主戦派の小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋と、戦争回避派の伊藤博文、井上馨が論争。政治家によりしっかり議論されていました。
日露双方の海軍力の状況。
ロシア側の当時の艦隊基地はウラジオストック、遼東半島先端の旅順、欧州黒海のオデッサにいる黒海艦隊、ラトビアのリエパヤ(ドイツ語リバウ)のバルチック艦隊がありました。
ウラジオストックの艦隊と旅順の艦隊を合算した海軍力と日本の海軍力はほぼ互角。
オデッサの艦隊は英国との協定により黒海からは出られず。
そこでリエパヤを基地とするバルチック艦隊を7ヶ月かけて日本海へ回航する計画をロシアは立てました。バルチック艦隊を合算すれば、日本海軍力の2倍となります。
日本はバルチック艦隊到着前にウラジオストック艦隊と旅順艦隊を破る必要がありました。
旅順は背後に203高地と言われる山があり、自然の優れた要害でした。
陸軍が背後から203高地を襲撃、極めて多大な犠牲に苦戦しながらも制圧。
このあと日本の女性のヘアースタイルに、額に庇、てっぺんを高く結い上げた203高地というのが爆発的に流行りました。
日本海軍はウラジオストックと旅順の艦隊の撃破に成功しました。
陸軍は満州の奉天(瀋陽)へ出兵、ロシア軍と対峙。この対峙は日露戦争終戦まで続きました。
ロシアはバルチック艦隊を欧州から7か月かけて日本海へ回航してきました。
東郷平八郎率いる連合艦隊は対馬沖でバルチック艦隊の到着を待ち受けました。
明治38年5月27にバルチック艦隊が対馬沖に現れ、東郷の優れた作戦により連合艦隊が完璧に勝利しました。
この勝利は有色人種が初めて白人に勝利したことで、欧米列強先進国に驚嘆されました。
経済面です。日露戦争の戦費総額は約18億円(見積時は4.5億円)、現在から見ると安く見えるが、国の1年間の歳入が2.6億円の頃の話し。
不足分を外債にて補おうとするも、「日本がロシアに勝つ訳ない」と各国最初は非協力的でした。しかし、1904年5月に鴨緑江会戦で日本陸軍がロシアに勝利すると、たちまち日本の外債に諸外国から人気が出て、外債発行は大成功となり、ようやく戦費の調達ができました。
しかし日露戦争に勝利しましたが、賠償金が取れなかったため、これの返済は昭和61年迄かかりました。
日清戦争に比べて約10倍の戦費がかかりました。
日露戦争の終戦処理のポーツマス条約です。
日本の全権大使は小村寿太郎、ロシアはセルゲイ・ウィッテ。両者とも物凄い切れ者、実力者でした。
当時の状況として、日本側は日本海会戦には勝利したものの、これ以上の戦争継続は財政的に全く無理な状況。ロシア側は財政的には戦争継続は可能であったが、第一次ロシア革命の前哨戦がおこり始めており、戦争は引き延ばせない状況。
日本はアメリカのルーズベルト大統領に終戦処理の仲介を依頼。アメリカ東海岸のポーツマスにて交渉開始。小村とウィッテ間で物凄くタフなネゴシエーションを展開。大まかには日本は樺太の南半分と満州の鉄道の一部を得ることで決着。
日本は財政的に戦争継続不可なことを極秘にしており国民に知らせて無かった。賠償金が取れない理由をマスコミや国民は知らず、各新聞が賠償金を取れないことを騒ぎたて、国内で暴動が発生しました。
マスコミに国民が踊らされた顕著な例でした。
ではここで、日清戦争と日露戦争を通した国民の一般な意識の変化について。
まず、日清戦争後。明治維新以来、西洋文明を取り入れ、富国強兵策を図り、アジアの最強国中国に勝利、日本はアジアの覇者となりました。
国民は西洋文明は凄い、苦労して取り入れた価値があったと評価し、東洋文明を否定する傾向に至りました。
次は日露戦争。西洋文明を取り入れた日本が西洋の大国ロシアに勝った。
すると、日本は西洋文明を取り入れただけではなく、東洋の中の日本には伝統的な、神がかりな強さがある、と考えるに至りました。
このへんから軍事面での過度な自信が付いたと見込まれます。 しかし、富国についてはロシアや欧米諸国と比較してまだまだな状況でした。
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