日清戦争(1894-1895 明治27-28)
これは中国(当時は清国)との朝鮮半島奪い合いです。朝鮮は当時中国を宗主国とし植民地化されていました。
日本は以下の二つの理由で朝鮮半島を必要としていました。
一つ目は朝鮮半島に於ける権益拡大、即ち植民地化。
二つ目は当時ロシアが東岸で南下政策を取っており、これから日本国土を守る為の緩衝地帯として。
前提として、日本と中国間に締結された天津条約があり、これは中国又は日本の一方が朝鮮へ軍隊を派遣する場合は、相手方にも事前通告し軍隊の派遣を認めるというものです。
朝鮮内部の反乱発生により、これを押さえるために中国と日本が出兵。
反乱鎮圧後、中国と日本でその後の朝鮮の取り扱いで意見が異なり日清戦争に至りました。
結果は日本の圧勝。日本は朝鮮の独立(実質植民地化)、台湾及び遼東半島を入手。日本の国家予算の3年分相当の賠償金を獲得しました。
しかし、遼東半島は後に三国干渉(ロシア、フランス、ドイツ)の圧力により返還させられてしまいました。
日清戦争の勝利により、日本は軍事力に自信を持ちました。同時に西欧諸国(含むロシア)には中国の軍事力が脆弱なことを知らしめた結果となりました。
日本には三国干渉により遼東半島を取られた悔しさが残り、ますます軍事力強化へ進む。
三国干渉で遼東半島が取られた顛末は以下の通りです。
首謀者はロシアがフランスとドイツに声をかけました。
ロシアは当時南下政策を取っていました。理由は遼東半島にある大連、旅順などを租借し不凍港を確保するためです。しかも日本から遼東半島を取り返してやると中国に恩を売ることが出来、満州での鉄道敷設権などを得ることが出来たのです。フランスとドイツは中国から様々な権益を得る為に悪乗りしました。英国は日本が早くから手を結んでいたので、加わりませんでした。
閔妃(みんび)暗殺事件(1895年)
朝鮮王朝は二つの派閥が闘っていました。
一つは爺様(大院君)、もう一つは爺様の息子(高宗)の嫁さん(これが閔妃)。
爺様は日本寄り。閔妃は最初は中国寄り。しかし、日清戦争で中国が負けてからは急遽ロシア寄りにかわりました。
この閔妃のパワーが凄く、爺様派閥や日本からはかなり邪魔な存在になりました。
賊が王宮に押し入り閔妃を殺害してしまいました。
下手人は今も諸説あり、日本人、爺様派閥の人、またはその合同などです。日本は何らかの形で関わっていた模様です。更には、閔妃は43歳の別嬪であったらしい。確実な写真は無い模様で、閔妃殺害後、その亭主(国王)は在朝鮮ロシア大使館で執務にあたっていたそうです。
日本にとってロシアはかなり危険な存在でありました。
日英同盟
次は日英同盟(1902年 明治35年)です。
当時日本国内では日露協商論と日英同盟論に二分されていました。日露協商論は伊藤博文と井上馨が主張、日英同盟は山縣有朋と桂太郎が主張。
日露協商論は日本は朝鮮半島を取り、ロシアに満州を譲るという協調路線。
日英同盟はロシアは信用出来ない、満州にとどまらず朝鮮更には日本へ侵攻して来る可能性が高いとし、牽制のために英国と同盟を結ぶ、つまりロシアとは対立路線。
桂太郎内閣は日英同盟を推し進め、日露開戦を想定し軍備拡張を進めました。
日英同盟の主たる内容。日英どちらかが第三国と交戦した場合は、他方は中立を守る、というものでした。
これで日本がロシアと戦っても英国は中立を守ることになる訳です。兎に角その頃は英国が群を抜いて強いですから。
日英同盟について、内村鑑三は日本が英国と組んで更なる侵略行為に走ると危惧。
夏目漱石は玉の輿に乗った女が嬉しそうに騒ぎ回る、と皮肉りました。
ここいらで、日清戦争当時の政治、経済、国民の気持について調べようと思います。
先ず政治。この頃はまだ政治が軍事をリード出来ていたようです。
日清戦争直前に史上初の大本営が設置されました。
枢密院議長、首相、外務大臣も列席。軍人のみではありませんでした。
更に当時の指導層は元士族であり、彼等は政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育ったため、政治指導者は軍事に理解があり、軍事指導者には政治に理解が有りました。
後の世のように軍事専門教育のみを受けた軍事エリートのみで構成された集団ではありませんでした。
全体として政治が主導し、軍事がついてゆく構造でした。
では経済。
経済の元となる国民の質。よく言われるように、江戸時代末期の国民の教育レベルの高さ。身分別人員構成比では武士が全体の6%、工商が6%、農民が86%と言われています。
しかし全国民の修学率は男子43%、女子10%といわれる。
これは全国に1万以上有ったと言われる寺子屋のおかげ。読み書き算術が主として教えられていました。また士族相手には全国に200を超す藩校がありました。
明治政府になってからも教育にかなり力を入れており、明治4年に文部省設立。明治8年には2万4千校の小学校を設立しています。なかなか当時の人は良く考えていたようです。
西欧の帝国主義に飲み込まれて多くのアジア諸国のように植民地にならないための強兵策。この強兵策のバックボーンとなる富国策。
産業を起こし発達させる為に、優秀な外国技術者を超高給で沢山雇い入れて、指導に当たらせました。総理大臣級の給与よりも高給で雇ったそうです。
ご存知の通り最初は繊維産業、次に日清戦争の賠償金で重工業(まず八幡製鉄所)。
日清戦争になっても徴兵数は少なく、しかも派兵期間も短かったため、国内労働力に大きな影響は無かったようです。寧ろ、当時国内労働力は余剰な状態でありました。
日清戦争の賠償金により日本国内は潤いました。
しかも日英同盟により、国際的な安心感が政府および国民に蔓延。
しかし、勿論現実には女工哀史、口減らしの為の赤線商売などは多く存在していました。
しかし、西南戦争により政府の財政状況は一挙に苦しくなり、戦費調達の為に不換紙幣などを乱発。所謂「悪貨は良貨を駆逐する」状態になり、物凄いインフレとなりました。これを解決するために、松方大蔵大臣は不換紙幣の回収焼却、増税、金融引き締め策を実施。その結果当然激しいデフレとなりました。
このデフレで大きな影響を受けたのは農民。江戸時代は税金は米など農作物で納めていたが、明治政府になってからは紙幣で納税。ところが、デフレで農作物は超安値でしか売れず、納税がままならず、破綻。今迄自作農家であった農家が、豪農に自分の農地を売り渡して、自分は豪農の元で土地を持たない小作農家になり果てるケースが相次ぎました。士族と農民にとってはかなり厳しい時代となりました。
別の角度から見れば、農地、農民の集約化が著しく進みました。
この時代の国民の気持の代表としては一般人では全くありませんが、啓蒙思想家の福沢諭吉さんですね。私は小学生の頃北九州市におり、修学旅行で中津の福沢諭吉の生家に行った覚えがあります。ご存知のとおり西洋思想(特に英国)を持ち込みました。勝海舟とは随分仲が悪かったようです。
西南戦争1877年(明治10年)について。
事の発端は西郷隆盛と盟友大久保利通の政治に関する意見の決別です。
二人とも薩摩藩出身。歳は西郷が2歳年上。
大久保が岩倉使節団として1871年(明治4年)-1873年(明治6年)に米国欧州を視察している間に留守を預かっていたのは西郷。その間に大久保から西郷に対し留守中は大きな変革を行わないことを西郷と約束。
しかし、その間西郷は大きな変革を幾つも遂行、大久保は西郷に不信感をもつ。大久保帰国後は韓国に対する扱いでも意見対立(西郷の征韓論)。大久保は広く欧米を視察した結果、先ず国内の富国が最優先と判断。
この対立により西郷は役職辞す、この時西郷を慕う政治家、軍人、官僚600人が同時に辞職。
西郷は鹿児島にこもる。
もう一つの重要な背景が、従来の士族階級の状況。明治4年に中央集権化及び財政改革を目的に行われた廃藩置県。これにより士族の特権は無くなり、不満を抱える元士族が西郷の元に集まる。江戸幕府の頃は国の歳入の4割が人口5%しかいない士族に配布されていた。
西郷は集まった不満士族の反乱を防ぐ為に鹿児島で私学を設立して教育にあたる。しかし、これが反乱の準備と大久保に見做される。
大久保が西郷の暗殺を試みたことが発覚し、西南戦争への引き金となった。
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