1.ユダヤ人の定義:
ユダヤ人の定義はイスラエルの国内法によればユダヤ教を信じる人、または母親がユダヤ人であることとなっています。
一方、ヨーロッパでは母親がユダヤ人でなくとも、父親がユダヤ人であればユダヤ人であるとして扱うことが多いです。
現在全世界に約1,400万人のユダヤ教徒が存在します。イスラエルに680万人、米国に570万人、その他の国に200万人です。
尚、イスラエルの人口は約950万人ですが、そのうちユダヤ人は約70%の680万人です、残りの30%はイスラエル国籍を持ったアラブ人などです。
過去の人類学ではユダヤ人という人種が存在するという考え方もありましたが、現在では長い間の周辺民族との混血により、人種としての概念で捉えることには無理があります。
ユダヤ人は、ヘブライ人又はイスラエル人とも呼ばれます。
2.ユダヤ人発祥の地:
ユダヤ人は古くからヨルダン川東岸の山岳地帯からカナンに進出していました。彼らの出目は不明です。
旧約聖書ではノアの箱舟がアララト山へ漂着後、ノアの末裔が一族を引き連れてメソポタニア地方からカナンへ移住してきたことになっています。
旧約聖書とは、紀元前1400年頃から約1000年間にわたる神とユダヤ民族との関わりの歴史と、救いの約束を描いた書物です。ヘブライ語で書かれ、ユダヤ教およびキリスト教の経典です。
3.ユダヤ人のエジプト移住:
紀元前17世紀頃、カナンの地が飢饉に襲われ、ユダヤ人はエジプトへ集団移住しました。
当時のエジプト王朝はユダヤ人を優遇。しかし王朝が変わったことにより、ユダヤ人は迫害され奴隷となってしまいました。
4.ユダヤ人がエジプト脱出しカナンへ:
紀元前13世紀頃、モーゼに率いられたユダヤ人はエジプトを脱出し、
カナンに再度定住しました。(映画:十戒)
5.ユダヤ人がカナンにヘブライ王国を建国:
紀元前11世紀末にサウル王によりヘブライ王国が成立。
紀元前1003年に第二代目の王ダヴィデにより周辺国を征服。
その次の王ソロモンの時に全盛期となり、エレサレムに神殿を建設。
(映画:ソロモンとシバの女王)
6.へブライ王国の南北分裂:
紀元前922年頃ヘブライ王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。
紀元前722年にイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。
南のユダ王国は紀元前586年まで存続します。
7.ユダヤ人がバビロニアに連れ去られる(バビロンの捕囚):
紀元前586年にユダ王国はバビロニア(メソポタニア地方)により滅ぼされました。この時多くのヘブライ人(ユダヤ人)がバビロンに連れ去られました(バビロンの捕囚)。
このバビロン捕囚の間にユダヤ教を民族宗教として完成させました。
その後紀元前538年にバビロン滅亡により解放され、50年ぶりにエレサレムへ帰還しました。エレサレムに神殿を再建し、ユダヤ教を信仰しました。
8.ユダヤ教の教義:
・唯一絶対の神、ヤハウエのみを信じ、他のいかなる神も認めない。
・ユダヤ人はヤハウエから選ばれた選民である。(他の民族に対し排他的)
・神から与えられた律法(トーラ)を厳格に守ることにより共済される。
律法にはモーゼの十戒の他に約600項目ある。古代ではこの律法を破ると死罪であった。
例えば毎週土曜日を安息日としており、土曜日に敵が襲撃してきても交戦できず、そのまま殺戮されたり奴隷になったりすることも度々あった。
・救世主(メシア)の出現を信じる。
・旧約聖書のみが聖典である。尚、旧約聖書とはキリスト教での呼び名でユダヤ教ではタナハと呼ばれる。
飲食が禁止されているもの:豚、血液、イカ、タコ、エビ、カニ、ウナギ、貝類、ウサギ、馬、宗教上の適切な処理が施されていない肉、乳製品と肉料理の組合せなどです。
(チーズバーガー、肉入りシチューは当然ダメ、カニかまぼこもカニを連想するのでダメです)
9.ユダヤ人がローマ帝国の支配を受ける:
ユダヤ人は紀元前37年からローマ帝国の支配を受けます。ローマ帝国は当初は各民族の宗教には寛容であり、ユダヤ教に対しても最初は迫害することはありませんでした。ローマ帝国は紀元前6年にパレスチナを属州としました。
10.イエス=キリストの登場と処刑:
紀元前4年又は6年にユダヤ人のイエス=キリストが登場。ユダヤ教の革新を民衆に呼びかけました。(例えば厳しすぎる律法を死守することから自由になること、他の民族に対し排他的であることを止めるなど。)
これに反発するユダヤ人も多かった、彼らがローマ人のローマ総督にイエスの処刑を訴え、更にローマ総督はイエスの活動がパレスチナの反ローマ感情と結びつくのを恐れ、西暦30年頃にイエスを処刑しました。
イエスの教えは使徒たちにより少しずつ広められました。キリスト教は、始めはユダヤ教の一分派程度の位置付けでした。
11.ユダヤ人がローマ帝国に対し蜂起:
西暦66年から73年にかけて、ローマ帝国のユダヤ人への圧政に対し、ユダヤ人が蜂起しました(ユダヤ戦争)。中でもマサダの要塞に立てこもった約1000人のユダヤ人が最終的に自決しました(マサダの戦い)。
この時エレサレム神殿がローマ軍により破壊され、それの残骸である壁が現在でも「嘆きの壁」としてエレサレムに残っています。
12.ユダヤ人にローマ市民権が与えられる:
西暦212年にユダヤ人にローマ市民権が与えられます。西暦313年にキリスト教と共にユダヤ教も認められます(ミラノ勅令)。
西暦380年にローマ帝国がキリスト教を国教とします。
キリスト教は帝国内で広まっていきました、一方ユダヤ教は厳しすぎる律法と排他性による衰退がはじまりました。
キリスト教徒はイエスをユダヤ人が殺したとの誤解により、ユダヤ教徒への反感が高まっていきました。
13.中世ヨーロッパのユダヤ人の離散:
ユダヤ人の故郷パレスチナはローマ帝国以降も様々な国々の支配を受け、ユダヤ人は世界中に離散せざるを得ませんでした(ディアスポラ)。
ヨーロッパの封建社会ではキリスト教徒荘園領主が土地を支配し、若干の保有地を持つキリスト教徒の農奴が耕作するのが原則であるため、ユダヤ人には土地所有の自由はありませんでした。そのため、ユダヤ人は都市に流れ込みユダヤ人居住区を作り、許されている数少ない職業につきました。
例えば当時キリスト教徒には許されていない利子を取る金貸し業、医師、商店を持たない行商人、芸能人など。
11世紀頃迄はユダヤ人は迫害を受けておらず、キリスト教徒と共存していました。
14.第一回十字軍遠征からユダヤ人迫害始まる:
1096年に第一回十字軍遠征が始まりました。目的はイスラム教徒からエルサレムを奪回することでした。ユダヤ教とイスラム教はキリスト教の敵と看做されました。
この遠征途中でドイツのライン川沿いなどのユダヤ人が多く住む集落を遠征軍が襲撃し、キリスト教へ改宗しないユダヤ人は老若男女の区別なく自決又は虐殺されました。また略奪も度々行われました。
ユダヤ人迫害の背景には、西欧では既にキリスト教社会になっており、その中で独自律法に厳しく閉鎖的な生活を行うユダヤ教徒は異端と見られていました。
また、13、4世紀頃まではユダヤ人のみに許されていた利子を取る金貸し業で富を築くユダヤ人もおり、キリスト教徒から妬みを買うケースもありました。利子は年30~40%に及び、多くの債務者は担保物件を失いました。後の16世紀末に書かれたシェークスピアの「ベニスの商人」もこれを助長してしまいました。
ヨーロッパ各国でユダヤ人に対する差別が幅広くおこなわれました。
・ユダヤ人衣服にバッジを縫付けたり、特別な色をした帽子の着用を義務付けられました。これはユダヤ教徒であることを明確にすることと、キリスト教徒とユダヤ教徒が性的な交渉を持つことを禁ずる意味もありました。
・ユダヤ教徒とキリスト教徒の同席飲食の禁止。
・ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止。
・ユダヤ人商店でキリスト教徒が肉や食料を買うことを禁止。
・ユダヤ人をゲットーと呼ばれるユダヤ人専用居住区への押し込め。居住区を囲む塀に門があり、昼間は門から出られるが、夜間には閉ざされました。
・15世紀末スペイン、ポルトガルにおけるユダヤ人追放令。それまではスペイン、ポルトガルには多くのユダヤ人が居住していました。
また、イエスを殺害したのはユダヤ人であるとの誤った認識もありました。
15.ペストの大流行
1346年~1370年にヨーロッパでペスト大流行しヨーロッパの人口の1/3~1/4程度が死亡しました。この時ユダヤ人居住区の死亡者が少なかったため、ユダヤ人が毒を井戸に撒いていると噂されました。
ユダヤ人にペスト患者が少ない理由は厳しい律法のおかげで、食事の前、外出後に手を洗う律法を厳しく守っていたからです。当時の一般的なヨーロッパの衛生状態はかなり悪く、これとはかなり異なっていたのが理由です。
いざとなったら何をするか分からない異教徒集団と見られていたようです。
16.フランス革命における人権宣言
1789年に勃発したフランス革命で発せられた人権宣言によりユダヤ人もその国に生まれた市民と同等な権利が漸く認められるようになりました。各地のゲットも解放されました。
しかし、ナポレオン帝国の崩壊により、元の木阿弥になってしまいました。
17.ナチスによるユダヤ人虐殺
1930年ドイツのヒトラーのナチ党により約600万人のユダヤ人が強制収容所に入れられ、大量殺害が行われました。
18.イスラエルの建国(1948年)
第一次世界大戦中の1917年に英国がユダヤ人に建国の約束したバルフォア宣言に基づき、第二次世界大戦後の1948年にパレスチナ地域(アラブ地域の一部)にイスラエルが建国されました。
しかし、このバルフォア宣言には現在にも大いなる禍根を残す矛盾がありました。
このバルフォア宣言以外に英国はサイクスピコ協定、フサイン・マクマホン協定を締結していました。これら三つの協定の概要は下記の通りです。この三つの矛盾した協定を英国の三枚舌外交と呼ばれています。
フサイン・マクマホン協定(1915年)
・内容:オスマン帝国敗北後の跡地のアラブ地域に、アラブ人居住地の独立支持を約束しました。
・目的:オスマン帝国と交戦中の英国がアラブ民族を味方に付け、オスマン帝国を内部から攪乱させる。(映画:アラビアのローレンス)
サイクスピコ協定(1916年)
・内容:英国が交戦中のオスマン帝国の跡地を英国、フランス、ロシアの三国で分割する約束。ロシアはロシア革命勃発により抜けたので、英国とフランスでの分割に至りました。
・目的:オスマン帝国の跡地からアラブ人を締め出して、英国、フランス、ロシアで占有。(実際は英国とフランスで二分)
バルフォア宣言(1917年)
・内容:ユダヤ人に対し、パレスチナにユダヤ人居住地(ナショナルホーム)を作ると約束しました。
・目的:トルコ帝国と交戦中の英国がユダヤ人富豪から戦費を引き出す。
(映画:栄光への脱出)
19.第一次、二次中東戦争
パレスチナへのイスラエル建国により、アラブ人とユダヤ人の対立は深刻になりました。アラブ人はイスラム教徒、ユダヤ人はユダヤ教徒です。
1947年に国連によりパレスチナ分割が議決されました。
これはパレスチナの人口の1/3に過ぎないユダヤ人に、半分強の土地を分割するというアラブ人には納得できない内容でした。
・第一次中東戦争(領土争い):1948年にパレスチナへユダヤ人がイスラエルを建国したことにより、領土を奪われたアラブ側がイスラエルと交戦。イスラエル側は最初は不利でしたが、最終的にはイスラエルの全面的な勝利となり領土を拡張し、アラブ人の領土はますます狭くなりました 。
・第二次中東戦争(スエズ動乱):1956年エジプトのナセル大統領が英国とフランスに経営権を握られていたスエズ運河の国有化を宣言。英国とフランスの支援を受けたイスラエルがシナイ半島を占拠。
しかし、アメリカ・ソ連を中心にした国際世論が英国・フランスを非難し、これを受けてイスラエルはシナイ半島から撤退、更にエジプトによるスエズ運河国有を認めた。以降アラブ勢力はナセルを中心に展開しました。
20.第三次、四次中東戦争
パレスチナ解放機構(PLO)が1964年に発足し、アラファトが1969年に議長となりました。
・第三次中東戦争:1967年イスラエルは突然6日間という短期間にシナイ半島、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領。
これはアラブによる国土奪還を目指すパレスチナ解放機構(PLO)がエジプト、シリアの支援により1964年に結成されたことに対する反撃が狙いです。
ナセルはこの敗北により権威が失墜し、間もなく死去しました。
・第四次中東戦争:ナセルの後を継いだエジプトのサダトは1973年にイスラエルへ奇襲攻撃を行い、シナイ半島のイスラエルからの返還を実現しました。しかし、ヨルダン川西岸およびガザ地区へは既にイスラエル人の入植が進み、そこの奪還は出来ませんでした。
21.パレスチナ解放機構(PLO)
1964年にエジプトのナセル大統領などのアラブ連盟(加盟現在21ケ国)の支援を受けてパレスチナ解放機構(PLO、主流はファタファ)が組織されました。1969年からアラファトが議長となり、対イスラエル・ゲリラ戦を積極的に展開しました。
やがてPLOは活動の拠点をレバノンのベイルートへ移します。
PLOの内部に更に過激なPFLP(パレスチナ解放戦線)が現れ度々ハイジャックなどを繰り返しました。これに協力した日本赤軍が1972年5月にイスラエル・テルアビブ近郊の空港で無差別銃撃事件を引き起こしました。
イスラエル側もこれに反撃し、PLOの活動家やアラブ人を度々攻撃しました。
1982年にPLOは活動拠点を更にチュニジアのチュニスへ移します。
PLO不在になったパレスチナで1987年ハマスが台頭。
22.アラファトの国連演説(二国共存)
1988年アラファトは国連で「パレスチナにおける二国共存」演説を行い、従来のテロ行為の放棄とイスラエルを認める旨を表明しました。
23.オスロ合意
1992年イスラエルの総選挙で25年ぶりに労働党が政権を奪取しラビンが首相になりました(参考:現政権のネタニアフおよび前政権のシャロンは共にリクード党)。ラビンはかねてから親交のあったノルウェーの外相の仲介によりオスロでPLOとの秘密交渉を1993年から開始しました。
その結果両者は相互承認を行い、1993年9月にワシントンのホワイトハウスでクリントン大統領立ち合いのもとで、ラビン首相とPLOアラファト議長との間で「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」が調印されました。
合意の主な内容は次の通りです。
(1)イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。
(2)イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。
翌年ラビン首相とPLOアラファト議長はノーベル平和賞を受賞しました。
24.オスロ合意の後のラビンとアラファト
残念なことに1995年にラビン首相は狂信的なユダヤ教徒の青年に暗殺されてしまい、和平プロセスは大幅に遅れることとなりました。
アラファトは1994年にガザへ戻りパレスチナ暫定自治行政府議長となりました。
しかし、アラファトはゲリラ戦の指導者としては優れていたが、統治者としての手腕はかなりお粗末であったようです。
人事権をはじめ、権力を一手に握るワンマン体制、腐敗、汚染構造、情実政治などの独裁政治に陥りました。
地元住民の不満の強まりとともに、アラファト自治政府に見切りをつけて、現状打破の底流が生まれます。
しかし、2000年にオスロ合意は決裂してしまいます。
25.ハマスの台頭
宗教的色彩の薄かったPLO(ファタファ)と異なり、過激なイスラム原理主義に基づいたハマスが2006年の総選挙で第一党になります。
しかし、ハマスとファタファの内紛により、パレスチナはハマスのガザ地区とファタファのヨルダン川西岸地区に分裂してしまいました。
2006年にイスラエルはガザ地区を経済封鎖してしまいます。
ハマスは元々はムスリム同胞団の流れをくんでおり、教育、医療、貧困の救済、職業訓練、奉仕などのイスラム教の理念である助け合いを実践する団体でした。戦争の明け暮れたPLOに飽き足らないパレスチナの民衆に強く支持されていました。
2007年まではハマスとファタファは連立政権をくんでいました。その間はハマスはイスラエルへの攻撃を自粛していました。
しかし、2008年以降ガザ地区のハマスとイスラエルは相互に攻撃の応酬を行っています。
ガザ地区にはハマスより過激な武装組織が約10組織程度あると言われています。それら間の相互の衝突もあります。
26.まとめ
今から約3千年前にパレスチナ地域に住み着いていたユダヤ人が世界中に拡散せざるを得なくなり、ようやく1948年に建国を果たしました。
しかしそこには既にパレスチナ人が居住していました。
イスラエルの人口約950万人、パレスチナ人の人口約547万人(ヨルダン川西地区325万人、ガザ地区222万人)。
イスラエル:パレスチナの人口比は約1.7:1です。
面積はイスラエルとパレスチナを合わせて約2.8万平方キロメートルです。これは日本の四国(約1.9万平方キロメートル)の約1.5倍の広さです。
イスラエルが約2.2万平方キロメートル(四国の約8割程度)。
パレスチナが0.6万平方キロメートル(ヨルダン川西地区0.57万平方キロメートル(三重県程度)、ガザ地区0.03万平方キロメートル(千葉県市原市程度))
イスラエル:パレスチナの国土面積比は約3.7:1です。
人口密度はイスラエル432人/km2
パレスチナ913人/km2
(ヨルダン川西岸570人/km2、ガザ地区7400/km2)
参考:東京都6287人/km2、神奈川県3814人/km2、
千葉県1224人/km2、京都府545人/km2、三重県309/km2、
長野県152/km2、北海道62/km2、千葉県市原市717人/km2、
日本全体333/km2
ユダヤ人は国家を何とか建設できましたが、いまだ国を持たない民族もいます。
代表的な民族はクルド人です。人口は約3500万人と言われ、トルコ、イラン、イラクなどに多く分散居住しています。
西暦10世紀前後には王朝を建てて自立していましたが、その後王朝は滅亡し、未だ。国がありません。国を持たない中で最大の民族と言われています。
コメント