投稿者: rekishi

  • 防げなかった第二次世界大戦

    第一次世界大戦終決後、アメリカのウィルソン大統領を主とした提案により国際連盟が発足したのはご存知の通り。

    そこにアメリカは自国の議会の承認が得られず、参加出来なかったという驚くべき状況が発生したのもご存知の通りです。

    では、何故そのようなめちゃくちゃなことが発生したのか。

    当時のアメリカは現在からは想像出来ない程保守的でした。当時から約100年近く前のモンロー大統領の提案によるモンロー主義が深く根付いていました。これは端的に言うと、「アメリカは外国に干渉しない、外国はアメリカに干渉するな。」というものです。共和党の政策です。

    一方、ウィルソン大統領は民主党で対外政策に積極的でした。当時議会は共和党が主流。

    国際連盟の規約に集団安全保障の条項があり、議会は他国の騒動に巻き込まれることを拒否し、国際連盟への加盟を拒否してしまいました。

    当時アメリカは世界一の工業国になっており、軍備も最強でした。

    しかし、言ってみると、自分たちだけ安全であれば良い、他のことは知らんと言う事でしょうか。

    アメリカは自国が戦場にならず、血を血で洗う経験をした欧州諸国とはかけ離れた気持でした。

    誠に残念ながらウィルソン大統領の高邁な精神は本国では理解されませんでした。

    これにより国際連盟は世界最大の実力を持つアメリカの参加なくして運営せざるを得ず、後々禍根を遺すこととなりました。

    当時のアメリカの保守性について

    アメリカは自国外が戦場となった第一次世界大戦で景気が大変良くなりました。大量生産、大量消費の時代の到来です。

    保守性は益々進み、繁栄の渦から他民族を差別し追い出す動きが盛んになります。

    社会の中心階層をWASP(ワスプ)と呼ばれる人々で占めるようになります。

    W:ホワイトつまり白人

    AS:アングロサクソン

    P:プロテスタント

    このワスプに該当しない人々を締め出そうとします。

    また、K・K・K(くー・クラックス・クラン)という反黒人組織が南北戦争後に発足しましたが、これが再来し、黒人ばかりでなく、中国系や日系に対する迫害を行うようになりました。

    1924年には移民法が制定され、アジア系の移民が全面的に禁止されました。

    また、ピューリタン的な意向を反映して禁酒法も制定されました。

    この禁酒法が主としてイタリア系移民からなるギャングの暗躍の背景となったのはご存知の通りです。

    好景気に沸く大量生産・大量消費の裏側にはかなり閉じた社会構造がありました。

    イタリアでファシズムが台頭

    舞台は戦勝国イタリアです。

    イタリアは国土の一部がオーストリアに占領されていましたが、「イギリス側に寝返ればその国土をイタリアへ取り戻してやる」と言われてドイツ・オーストリアを裏切ったのでしたね。

    しかし、第一次世界大戦後にオーストリアに占領された国土の一部はイタリアに返還されましたが、残る一部は国際連盟の管理下に置かれることとなり、イタリアは不満を持つことになりました。

    更にイタリアは第一次世界大戦中に大量の物資を前線に送った為に、国内は物資不足になり、労働者の賃金は安く、失業者の数もふえ、深刻な不況になりました。

    そこで北イタリアの工場ではストライキが頻発。

    それを政府が鎮圧。しかし、その政府の実権を握っていたのは社会主義政党でした。

    労働者の味方である筈の社会主義政党が労働者を弾圧したことで、社会主義政党は国民の支持を失いました。

    そこで登場したのが、ムッソリーニが率いるファシスト党です。反社会主義です。

    社会主義になると工場、土地などが国有化されるため、資本家などの富裕層からファシスト党は人気が有りました。

    ムッソリーニは国家による統制経済を行うと宣言。

    仕事がない者には仕事を与える、物価が高ければ価格調整を行うと宣言しました。

    これにより、富裕層ばかりでなく、下層階級からも支持を得ました。

    更に、イタリアが一つに纏まらない理由は人々が選挙でバラバラな政党を選ぶからだとし、議会制民主主義を否定し、ファシスト党による一党独裁を主張し、取り入れに成功。

    ファシスト党がさまざまな問題を解決するので、国民は勝手な事を言うなと、言論の自由を抑圧しました。

    政府はこれを鎮圧しようとしましたが、国王がそれを許さず、ムッソリーニは首相に就任しました。



    アメリカで大恐慌が発生

    1929年です。これは現在では信じられませんが、株式は当時づっと上がり続けると人々に信じられており、ある日を境に全ての株式が暴落し始めました。

    日本でいうと2000年の少し前までの土地神話状態ですね。

    これは瞬く間に世界中に広がりました。

    この時各国が取った対策は、本国と植民地の間のみで貿易を行い、他国は一切締め出すというものです。ブロック経済と呼ばれました。

    これはイギリスやフランス等のように植民地を沢山持っている国には良いが、ドイツなどのように植民地を持たない国はたまりません。

    日本はアメリカで大恐慌が発生する数年前から輸入超過などによる不況に陥っており、更には関東大震災も重なり、そこにアメリカの大恐慌のあおりも大きく受け、全く疲弊した状態でした。

    日本にはブロック経済を行う貿易相手になるような十分な植民地は有りませんでした。

    ドイツのナチ党

    ご存知ヒトラーのナチ党、これは日本語では国民社会主義ドイツ労働者党と言います。

    考え方は、失業問題や経済格差などの社会問題を国家が中心になって(独裁で)解決すると言うものです。

    反ユダヤ主義、反共産主義、植民地の再分割がスローガンです。

    ユダヤ人については、ユダヤ人のせいで貧富の差が発生しているとしました。当時ユダヤ人は銀行家など裕福な人も沢山いました。

    植民地については、第一次世界大戦で失った植民地を取り戻そうともしていました。

    先に記載したイタリアのファシスト党と同じ種類の思想です。ドイツのナチ党は中間層や軍部から支持がありました。

    その後ナチ党はミュンヘン一揆というクーデタを起こしましたが、失敗しました。

    ドイツ人は一般にルールを破ることを嫌うので、国民からの支持が得られなかったようです。

    そこで合法的に選挙で戦うこととし、1932年の選挙で第一党に選ばれました。

    その前の1929年に発生した世界恐慌、及び第一次世界大戦で課せられた天文学的な額の賠償金のせいでドイツ国内の経済が全くめちゃくちゃであり、膨大な失業者に溢れている状況が選挙の追い風になったようです。

    翌年の1933年にヒトラーは全権委任法を成立、これはヒトラーに行政権と立法権を委ねるというものです。これでドイツはヒトラーの自由自在になりました。

    これ以降ドイツは第三帝国とも呼ばれるようになります。

    最初はイギリス、フランスなど第一次世界大戦戦勝国は黙って見ていました。

    その理由はファシズムの思想の中に「反共産」があるからです。ソ連の共産主義思想が西側諸国に及ぶのをなんとしてでも防ぎたかったのです。

    更には東欧諸国の独立も相次ぎましたが、これらの多くの国々では独裁国家が多くありました。民主主義国家だと選挙で共産主義国家に転じてしまう可能性がある為、これを防止するために敢えて独裁国家造りを進めたのです。

    東欧諸国は西側自由圏とソ連共産圏の中間バッファとされていたのです。

    ドイツは第一次世界大戦の敗戦により、軍備を厳しく制限されていました。

    ヒトラーはこれに不満を表明、大国間の軍備平等権を主張しましたが、国際連盟はこれを認めず。1933年10月にドイツは国際連盟を脱退。尚、後にのべますが、日本は同じ年の2月に既に国際連盟を脱退しています。

    ドイツは再軍備宣言を行い、徴兵制を復活させました。

    そこで警戒したのは西隣りのフランス、第一次世界大戦でドイツに攻め込まれてさんざんな目にあった過去がありました。フランスはドイツを挟み、ドイツが動けなくなることを目的にソ連と仏ソ相互援助条約を締結。更にはドイツの南に位置するチェコスロバキアとも同盟を組み、ドイツを東西南の三方から囲み込みました。

    一方イギリスは独自路線をとります。ドイツと英独海軍協定を結び、事実上ドイツの再軍備を認めました。その理由はフランスが仏ソ相互援助を結んだことで、ソ連が力を増すことを恐れ、ソ連を押さえ付ける役割をドイツに期待したのでした。

    その後ドイツはドイツ西側の非武装地帯ラインラント地方に軍隊を各国の反対を押し切って進駐させました。

    ドイツと同じファシズムのイタリアは経済回復に失敗しました、世界恐慌のあおりを喰らったためです。イタリア国民の目を逸らすために、アフリカのエチオピアへ侵攻しました。しかしこれは国際連盟から避難され、経済封鎖を受けることとなり、欧州での孤立を深めることとなりました、これでイタリアとドイツは似た境遇になりました。

    一方スペインではファシズムを支持するフランコ将軍による大規模な反乱、即ちスペイン内戦が発生、フランコ対人民戦線です。

    これに対しドイツ、イタリアはフランコ側を支持し積極的な軍事援助を行いました。

    一方ソ連は人民戦線側を支持。ソ連以外の各国からも義勇兵が国際義勇軍として参戦しました。ヘミングウェイの小説「誰がために鐘は鳴る」、ピカソの絵画「ゲルニカ」の舞台です。

    この戦いはファシズム対反ファシズムの戦いとなりファシズム側が勝利しました。

    この時、イギリスとフランスは不干渉政策を取ります。その理由はドイツ、イタリアがソ連を倒してくれるかもしれないという淡い期待を抱いていたからです。ファシズムは反共産主義ですから。

    このイギリス、フランス他の不干渉政策が後に大きな禍根を残すことになります。

    イギリス、フランスのファシズムへの不干渉を見たヒトラーは自分の政策に自信を持ちました。

    ドイツはドイツ系住民が住むオーストリアを併合します、これについてもイギリス、フランスは相変わらず反共に期待しドイツを咎めません。

    次にドイツはチェコスロバキアの北部でやはりドイツ系住民が多いズデーテン地方を併合します、これに対してもイギリス、フランスは宥和政策をとり承認しました。

    ドイツはこの時「これが最後の領土要求だ」と表明しております。

    しかしその直後、ドイツはチェコスロバキアを解体し、占領してしまいます。

    更にドイツはポーランドの一部の割譲を要求します。ポーランドはイギリス、フランスの支援を期待してこれを拒否します。

    ドイツはこのままポーランドを攻めるとソ連を警戒させる恐れがあるため、その阻止に独ソ不可侵条約を締結。

    この独ソ不可侵条約によりポーランドはドイツとソ連に挟まれる形となりました。

    そこでドイツがポーランドへ侵攻開始。

    これをきっかけに西欧の第二次世界大戦がはじまりました。

    ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーへと次々に侵攻。

    イタリアもドイツ側について参戦。

    この頃のドイツの戦い方は電撃戦と呼ばれ、まず航空機により首都迄の道を爆撃、その後トラックで兵士を首都迄運び一気に首都を占領するというものでした。首都さえ押さえれば、その国は機能しなくなり、簡単に占領できます。

    ドイツが始めに北欧を攻撃した理由は、そこにドイツ軍を配備してイギリスを動けなくする為です。その目的はフランスを占領するためです。

    イギリスはドイツに対し宥和的な政策を取っていたチェンバレン首相に替わり、強気なチャーチルが首相になりました。

    フランスはドイツに侵攻され、ドイツの傀儡ヴィシー政権が成立。

    アメリカは欧州がファシズムに染まるのを恐れ、イギリスなどに武器や軍事物質の貸与を始めました。

    これによりイギリスは何とかドイツの侵攻を食い止められるようになりました。


    ソ連およびドイツの不可侵条約

    ドイツと独ソ不可侵条約を結んだソ連はドイツと同じくポーランドへ東から侵攻し、ドイツとポーランドを分割します。

    更にソ連はバルト三国、続いてフィンランドへ侵攻し、制圧します。国際連盟はいかってソ連を除名します。

    ところがここでドイツがバルカン半島へ侵攻、ソ連もバルカン半島を狙っていたために両者が衝突。独ソ戦争が勃発。

    ドイツ及びイタリアがアメリカに宣戦布告しました。


    日本の情勢

    今迄、西欧について述べてきましたが、ここからは日本です。

    日本も西欧のイギリス、フランス、ドイツに劣らず第二次世界大戦前にはアジアを中心に侵攻、占領を繰り返していました。また、国内においては思考統制、軍部の増長があったことはご存知の通りです。

    まず今回はこの頃の日本の戦争に係る事項を時系列順に並べて見ます。少し遡って第一次世界大戦(1914~)前の1910年からです。

    1910年(明治43)日韓併合

    1911年(明治44)特別警察設置による思想弾圧

    1914年(大正3) 第一次世界大戦参戦(~1918)

    1915年(大正4) 対中国21カ条要求

    1920年(大正9) 国際連盟加入(常任理事国)

    1922年(大正11)海軍主力艦制限条約。国内不況が始まる。

    1928年(昭和3) 張作霖爆殺事件(満州)

    1929年(昭和4) 世界大恐慌

    1930年(昭和5) ロンドン軍縮会議(補助艦)

    1931年(昭和6) 満州事変発生(柳条湖事件)

    1932年(昭和7) 5.15事件 軍部による犬養毅首相暗殺。上海事変発生。満州国建国宣言。

    1933年(昭和8) 国際連盟脱退

    1936年(昭和11)2.26事件 軍部による高橋是清大蔵大臣他暗殺。日本の政党政治の終焉。これ以降軍部主導の政治となる。

    1937年(昭和12)日中戦争(盧溝橋事件)

    1938年(昭和13)国家総動員法成立(国家全ての人的・物的資源を政府が統制運用)

    1939年(昭和14)アメリカが日本の中国侵略への抗議として日米通商航海条約を破棄

    1940年(昭和15)日独伊三国同盟

    1941年(昭和16)太平洋戦争(第二次世界大戦)突入


    張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件

    では、日中戦争のきっかけの一つとなった張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件から。

    この事件は1928年(昭和3)6月に中国の瀋陽(当時は奉天)で発生しました。

    張作霖は満州馬賊出身の満州の覇者で様々な経歴がありました。

    日本政府と軍部は満州での既得権益を守る為に満州を支配しようとしていました。政府側は平和的に、軍部は力で。

    張作霖は日本に非協力的でした。

    日中の軍部(関東軍)は中国側の蔣介石が率いる国民革命軍の仕業と見せ掛け、張作霖が乗った列車を爆破し、張作霖を殺してしまいました。

    実は日本軍(関東軍)の仕業であることは日本国民には当時秘密にされ、国民が真相を知ったのは第二次世界大戦後でした。

    日本国民の目は日本軍部により欺かれていたのです。

    この事件の結果、張作霖の息子の張学良はかえって中国の蔣介石と手を結ぶこととなり、満州情勢は逆に日本に不利な結果となりました。

    この辺りから日本の軍部の著しい勝手な独走が始まります。地獄への第一歩です。

    この時満州へ駐在していた日本軍は関東軍です、表向きは南満州鉄道を警備する役割りでした。なお、関東軍の名称の「関東」とは満州全体を指す言葉で、日本の関東地方とは無関係です。


    満州事変

    今回も日本の関東軍による悪しき独断専行の話しです。

    これにより日本が世界の中で大きく道を踏み外すことになります。

    1931年9月18日、満州の奉天(現在の中国東北部の瀋陽)郊外の柳条湖付近で南満州鉄道が爆破されました(柳条湖事件)。

    関東軍は中国国民党(蔣介石)の仕業と断定し、防衛の為に戦闘をしかけました。

    中国国民党はこれに殆ど抵抗せず、関東軍は瞬く間に満州全域を占領しました。

    中国国民党が抵抗しなかった理由は当時中国共産党(毛沢東)との争い明け暮れていた為です。

    実は、柳条湖事件の鉄道爆破は中国国民党の仕業ではなく、関東軍が中国国民党を攻める口実作りに関東軍が仕組み鉄道を爆破したものでした。このことは第二次世界大戦後に始めて日本国民に知らされました。

    全く酷い話しです。


    上海事変、5.15事件及び国際連盟脱退

    満州事変が発生したのは1931年(昭和6)9月でした、翌年の1932年(昭和7)1月18日に上海事変が発生します。

    日本人僧侶が上海で中国人に襲撃され殺されました。これに日本の海軍陸戦隊が出動し中国軍と衝突したのです。3月には日本軍は中国軍を上海から追い出しました。

    実はこれには裏があります。

    満州を日本が占領するにあたり、欧米諸国からの反対を避けるために、欧米諸国の目を満州から遠く離れた上海に転じさせる目的で関東軍が仕組んだ罠でした。

    関東軍が中国人を大金で買収し、日本人僧侶を中国人に襲わせ殺害させたのでした。

    一説によると、この話しの一部に日本側スパイの川島芳子が絡んでいたと言われます、男装の麗人と言われる清朝の皇族の娘です、一時日本で暮らしていました。

    張作霖爆殺事件、柳条湖事件、上海事変と全て日本の関東軍が仕組んだ事件でした。全く信じられません。

    中国は日本の満州占領に抗議して、国際連盟に提訴します。

    国際連盟は日本に満州から手を引くように勧告します。

    一方日本政府は関東軍の満州占領に反対しておりました。


    5.15犬養毅首相暗殺事件

    この年の5月15日に日本の軍部の一部が首相を暗殺するという暴挙に出ます。5.15犬養毅首相暗殺事件です。

    これが日本の政党政治の終焉の始まりです。

    犬養毅は自宅に乗り込んできた軍人達に暗殺される前に「話せば分かる」と言ったそうです。

    軍部は満州国建国宣言をします。

    翌年の1933年(昭和8)日本は国際連盟から強く責められて、国際連盟を脱退してしまいます。


    2.26事件

    5.15事件の4年後の1936年(昭和11)2月26日に発生しました。

    当時陸軍は二つの派閥がありました。

    片方は「統制派」、もう片方は「皇道派」。

    統制派は軍部が政府や経済に深く介入し、政府を軍部よりに変えていく。

    皇道派は天皇親政を目指し暴力も辞さない。

    両派閥は激しく鎬を削っていました。

    当時の日本は昭和恐慌の真っ只中で特に農村漁村では赤貧の状態でした、街には失業者が溢れ、企業の倒産も数多くありました。

    また政界上層部や軍部上層部は汚職にまみれており私利私欲が横行していました。

    この状況の中で皇道派の若手将校を中心とした1500人の軍人が決起し、この状況を改善するべく「昭和維新」として政府の重要人物を襲撃し暗殺した事件です。

    この事件はじきに制圧されましたが、優秀な政治家を多く失い、軍部の力が益々強くなり、明治維新以来築いてきた政党政治が終わりをつげることになりました。

    これ以降の日本は軍部主導によるファシズム(全体主義)の世界となります。


    日中戦争

    1937年(昭和12)7月7日から始まり、1941年(昭和16)12月には太平洋戦争に拡大、1945年(昭和20)8月15日に日中軍の全面的な敗北で修了。

    当時日本陸軍は中国との武力衝突に備え、支那駐屯兵を増強していた。中国側も抗日に備え軍隊を増強しており、一発触発の状況にあった。

    始まりは中国の北京近く盧溝橋で発生した小さな事件です。日本軍の夜間演習中に近くにいた中国軍が実弾を発射し、日本兵が一時行方不明になったことがきっかけで、日本軍と中国軍が衝突しました。尚、この日本兵はトイレに行っていただけでした。

    その後戦闘は拡大し、8月には上海(第二次上海事変)、11月には南京へと広がり、日本軍は南京虐殺事件を起こした。戦いは更に中国各地に広がる。

    日本陸軍は中国との戦いを有利に進めるには北方のソ連が障害となると考え、ドイツとの軍事同盟が必要とし、日独伊の三国同盟を陸軍は主張。

    一方、日本政府及び海軍は三国同盟は米英との対立に繋がると考え強行に反対。

    1939年(昭和14)5月満州国とモンゴル人民共和国の国境で関東軍とソ連軍の衝突が発生(ノモンハン事件)。これは関東軍が日本政府や軍中央参謀本部の戦闘行為禁止命令を破って侵攻したもの。これは8月には停戦になった。

    これはドイツのポーランド侵攻により、ソ連が軍隊を西側に移動させる為に停戦となったもの。関東軍は実質は負けの状態。 以降日中戦争は泥沼化、長期化し、第二次世界大戦へ延焼。

  • 第1次世界大戦(1914-1918 大正3-7)

    いよいよ第1次世界大戦です。日本は勝利しましたが、じつは端っこを少し齧った程度なので、戦争の中心地であった西欧の話しをいたしましょう。
    この戦争では欧州を中心に1,600万人もの尊い命が奪われました。

    ドイツの情勢

    第一次世界大戦は1914年から始まりますが、その少し前の1871年まではドイツと言う国は有りませんでした。プロイセンと言う国を中心として、小さな国がバラバラに存在していました。西隣はフランス。フランスはカトリック、プロイセン周辺は一部を除きプロテスタント。両者は極めて仲が悪い、即ち宗教上の対立です。

    プロイセンの首相にビスマルクが任ぜられると、彼はプロイセン周辺国家を統合し、1871年にドイツを設立しました。これがドイツの始まり、結構ドイツの歴史は浅いのです。

    この統合の途中で、アルザスロレーヌ地方が問題になりました。昔の教科書に載っていた最後の授業の舞台です。あの物語自体は歴史を正確には反映していません。

    元々、神聖ローマ帝国時代からフランス領では有りませんでした。ある時からフランス領になったものです。故に住民はドイツ語に近い言語を話していました。

    そのアルザスロレーヌ地方は鉄や石炭などの地下鉱物資源が豊富な所です。かつその地方はカトリックなのです。

    ドイツ統一に際し、ビスマルクは本意では無かったようですが、軍部に押し切られてドイツに組み込みました。

    これがフランス国民の怒りをかっていました。

    ビスマルクはドイツの初代皇帝ヴィルヘルム1世の元で宰相として働いていましたが、やがてヴィルヘルム1世が亡くなり、引き継いだヴィルヘルム2世とは政策上の相違から辞任してしまいます。

    ビスマルクは周辺の国々とは安定をもたらす政策でしたが、ヴィルヘルム2世は異なります。東アジアへの進出を狙い、ベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バクダッドを鉄道で結ぶ計画を立てます。これはロシアの南下政策とはバルカン半島でもろにぶつかります。

    また、バクダッド経由でペルシャ湾を経てインド洋に出ると、当時インドを植民地としていたイギリスの艦隊ともろにぶつかることとなります。

    このドイツの政策がロシア及びイギリスとの関係をこじらせ、第一次世界大戦の火種になります。尚、イギリスは最初は中立の立場をとります。

    フランスの情勢

    フランス革命(1789年)以降、フランスの政治は全く定まらない状況でした。

    1789年 フランス革命

    1792年 第一共和制

    1804年 ナポレオンによる第一帝政

    1814年 第一次復古王政

    1815年 第二復古王政

    1848年 第二共和制

    1852年 ナポレオン3世による第二帝政

    1875年第 三共和制

    といった具合です。全く目まぐるしいですね。

    ドイツへの怨念が激しく、ドイツを挟み打ちにするつもりで、ロシア、イギリスと組んで三国協商をむすびます。

    イギリスの情勢

    次はイギリスです。

    イギリスは日本と日英同盟を締結していました。これは一方の国が複数国と交戦状態になれば加勢する、しかし1国と交戦状態ならば、中立を守るというものでした。これのお陰で日本は安心して日露戦争を行えました。

    そのイギリスは植民地インドとの航路の確保が必須で、航路は二つありました。一つは地中海→スエズ運河→紅海→インド、もう一つはアフリカの最南端ケープタウン→インド。そのため、フランス人レセップスによるスエズ運河を買収、エジプト、紅海沿岸に接するスーダンへの侵攻、更に南アフリカへの侵攻。これらはフランス、ドイツとアフリカ大陸内で衝突をくり返しながら実施され成功しました。

    バルカン半島の情勢

    次はヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島です。

    当時はドイツが東に支配を広げるためにベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バクダッドを結ぶ鉄道を計画していました。これにはバルカン半島を通過する必要があり、仲間のオーストリアを使ってバルカン半島を専有する意図がありました。

    一方ロシアは小麦輸出および軍港のための不凍港が必要であり、バルカン半島を狙っていました、ロシア人はスラブ民族です。バルカン半島のスラブ民族を後押し、専有する意図がありました。

    その昔バルカン半島は永らくオスマン帝国が領有していましたが、オスマン帝国が衰退すると南半分にスラブ人国家が多数独立しました。ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、アルバニア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャなどです。

    一方、北半分はゲルマン人であるオーストリアが領有。ゲルマン人とスラブ民族の対立が起こります。

    まず、オーストリアはスラブ人国家であるボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻し領有しました。

    その後、オーストリア皇太子夫妻が領有したボスニア・ヘルツェゴビナの州都であるサライェヴォを訪問しましたが、この際にセルビア人青年に暗殺されてしまいました、有名なサライェヴォ事件です。

    これが一発触発のバルカン半島に火を点け、第一次世界大戦を引き起こしました。

    サライェヴォ事件から第一次世界大戦へ至る経緯

    1914年6月28日 サライェヴォ事件発生。

    7月28日 オーストリアがセルビアへ宣戦布告

    7月30日 ロシアが総動員令発令

    8月1日 ドイツがロシアに宣戦布告

    ロシアは不利が予想された為、三国協商の一員であるフランスに協力依頼、ドイツを東西から挟み込む作戦。

    8月1日 フランスは総動員令発令。

    8月3日 ドイツがフランスに宣戦布告。

    ドイツはフランスのパリに攻め込む際に、ショートカットの為にベルギーへ侵攻後フランスへ軍を進める。ベルギーは当時中立国を宣戦していた。

    イギリスも当初中立であったが、ドイツのベルギー侵攻を見て参戦を決意。

    8月4日 イギリスがドイツに宣戦布告。

    日本は当時イギリスと日英同盟を結んでいたため、参戦。

    8月23日 日本がドイツに宣戦布告。

    11月初頭 イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告

    1915年5月23日 イタリアは当初ドイツ、オーストリアと同じ三国同盟の一員であったが、裏切ってフランス、ロシア、イギリス側の三国協商に寝返った。そして、オーストリアに宣戦布告した。

    アメリカは当初中立であったが、ドイツの潜水艦により米国人が沢山乗船していた客船ルシタニア号が撃沈され、国民感情が対ドイツとなった。

    1917年4月6日 アメリカがドイツに宣戦布告。

    日本のへの影響

    日本は参戦によりアジア圏及び南太平洋でのドイツの植民地を奪い取りました。

    中国の青島と山東半島および、南太平洋の赤道以北の島々です。

    この赤道以北の島々はマリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島、ビキニ島などかなり広範囲な領域に渡ります。

    日本の参戦については、日英同盟に基づいていますが、必須事項ではなかったため、日本国内では参戦について政界で賛否両論が戦わされました。

    又、英国やアメリカは日本が中国に深く入り込むのではないかと大いに懸念されていました。中国は彼等も強く狙っていた為です。

    また、人種差別もありアメリカは日本をかなり警戒するとともに嫌っていました。

    イギリスの秘密条約

    連合国(協商国)側リーダであるイギリスの秘密条約。

    当初敵側の同盟国の一員であったイタリアの抱き込み。

    ロンドン秘密条約。

    イタリアは一部地域を同じく同盟国側であったオーストリアに占領されていた。イギリスはイタリアに連合国側に寝返れば、連合国が勝利した暁には、オーストリアに占領されている地域をイタリアのものにしてやると約束して、連合国側に寝替えさせた。まるで日本の関ヶ原の戦いの小早川ですね。

    次は同じくイギリスの秘密条約、所謂有名な三枚舌外交。

    なぜ三枚舌と言うか、それは同じ地域に関し、三者と別々の約束をしたからです。

    全く酷い話しです。これの後遺症は現在も尾を引いています。

    その対象地域は同盟国のオスマン帝国の領土です、特にパレスチナを含みます。

    1枚目 フセイン・マクマホン協定。

    イギリスはアラブ人にオスマン帝国の領地(パレスチナを含む)にアラブ人国家の独立を約束。

    2枚目 サイクス・ピコ協定。

    イギリスは連合国のフランス、ロシアに対し、オスマン帝国の領地をイタリア、フランス、ロシアの三国で分割することを約束。

    3枚目 バルフォア宣言。

    イギリスはユダヤ人にオスマン帝国の領地であるパレスチナにユダヤ人国家建設を支援するというもの。これは戦費をユダヤ人から借り入れる為です。

    戦況

    では、第一次世界大戦の戦況をごく大雑把に。

    ドイツ・オーストリアの西はフランスに(ドイツから見て西部戦線)、東はロシアに挟まれ(ドイツから見て東部戦線)、更に北は遅れて参戦したイギリスに囲まれます。

    西部戦線ではフランスが辛うじて守りきりました。

    東部戦線では最初はドイツ・オーストリアが有利でしたが、ロシアを東へ深追いし過ぎて冬将軍にやられます。

    更にそこにアメリカが参戦。

    ロシアはロシア革命勃発で戦線離脱。

    それまで全体としては膠着状態でありましたが、アメリカ参戦で一気に協商国(連合国)(イギリス帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国、大日本帝国、イタリア王国、ロシア帝国、他)側の勝利となりました。

    負けたのは同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)。

    尚、ドイツは1918年11月に革命が発生し、問題が多かったヴィルヘルム2世は亡命、ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ共和国となりました。

    ロシア帝国はご存知のとおり1917年の2月及び10月革命により崩壊し、ソビエト社会主義共和国連邦につながりました。

  • 日露戦争(1904-1905 明治37-38)

    日清戦争の10年後に発生した日露戦争(1904-1905 明治37-38)。
    当時日本はロシア南下政策にかなり脅威を感じていました。

    すなわち、漸く勝ち得た朝鮮半島が取られる可能性、三国干渉により取られた遼東半島を露清密約により租借し、そこからの日本攻撃の可能性、義和団の乱の収拾と称し満州へロシア出兵等です。

    しいては日本がロシアの植民地となる可能性ありと。

    国内では対露主戦派の小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋と、戦争回避派の伊藤博文、井上馨が論争。政治家によりしっかり議論されていました。

    日露双方の海軍力の状況。

    ロシア側の当時の艦隊基地はウラジオストック、遼東半島先端の旅順、欧州黒海のオデッサにいる黒海艦隊、ラトビアのリエパヤ(ドイツ語リバウ)のバルチック艦隊がありました。

    ウラジオストックの艦隊と旅順の艦隊を合算した海軍力と日本の海軍力はほぼ互角。

    オデッサの艦隊は英国との協定により黒海からは出られず。

    そこでリエパヤを基地とするバルチック艦隊を7ヶ月かけて日本海へ回航する計画をロシアは立てました。バルチック艦隊を合算すれば、日本海軍力の2倍となります。

    日本はバルチック艦隊到着前にウラジオストック艦隊と旅順艦隊を破る必要がありました。

    旅順は背後に203高地と言われる山があり、自然の優れた要害でした。

    陸軍が背後から203高地を襲撃、極めて多大な犠牲に苦戦しながらも制圧。

    このあと日本の女性のヘアースタイルに、額に庇、てっぺんを高く結い上げた203高地というのが爆発的に流行りました。

    日本海軍はウラジオストックと旅順の艦隊の撃破に成功しました。

    陸軍は満州の奉天(瀋陽)へ出兵、ロシア軍と対峙。この対峙は日露戦争終戦まで続きました。

    ロシアはバルチック艦隊を欧州から7か月かけて日本海へ回航してきました。

    東郷平八郎率いる連合艦隊は対馬沖でバルチック艦隊の到着を待ち受けました。

    明治38年5月27にバルチック艦隊が対馬沖に現れ、東郷の優れた作戦により連合艦隊が完璧に勝利しました。

    この勝利は有色人種が初めて白人に勝利したことで、欧米列強先進国に驚嘆されました。

    経済面です。日露戦争の戦費総額は約18億円(見積時は4.5億円)、現在から見ると安く見えるが、国の1年間の歳入が2.6億円の頃の話し。

    不足分を外債にて補おうとするも、「日本がロシアに勝つ訳ない」と各国最初は非協力的でした。しかし、1904年5月に鴨緑江会戦で日本陸軍がロシアに勝利すると、たちまち日本の外債に諸外国から人気が出て、外債発行は大成功となり、ようやく戦費の調達ができました。
    しかし日露戦争に勝利しましたが、賠償金が取れなかったため、これの返済は昭和61年迄かかりました。

    日清戦争に比べて約10倍の戦費がかかりました。

    日露戦争の終戦処理のポーツマス条約です。

    日本の全権大使は小村寿太郎、ロシアはセルゲイ・ウィッテ。両者とも物凄い切れ者、実力者でした。

    当時の状況として、日本側は日本海会戦には勝利したものの、これ以上の戦争継続は財政的に全く無理な状況。ロシア側は財政的には戦争継続は可能であったが、第一次ロシア革命の前哨戦がおこり始めており、戦争は引き延ばせない状況。

    日本はアメリカのルーズベルト大統領に終戦処理の仲介を依頼。アメリカ東海岸のポーツマスにて交渉開始。小村とウィッテ間で物凄くタフなネゴシエーションを展開。大まかには日本は樺太の南半分と満州の鉄道の一部を得ることで決着。

    日本は財政的に戦争継続不可なことを極秘にしており国民に知らせて無かった。賠償金が取れない理由をマスコミや国民は知らず、各新聞が賠償金を取れないことを騒ぎたて、国内で暴動が発生しました。

    マスコミに国民が踊らされた顕著な例でした。

    ではここで、日清戦争と日露戦争を通した国民の一般な意識の変化について。

    まず、日清戦争後。明治維新以来、西洋文明を取り入れ、富国強兵策を図り、アジアの最強国中国に勝利、日本はアジアの覇者となりました。

    国民は西洋文明は凄い、苦労して取り入れた価値があったと評価し、東洋文明を否定する傾向に至りました。

    次は日露戦争。西洋文明を取り入れた日本が西洋の大国ロシアに勝った。

    すると、日本は西洋文明を取り入れただけではなく、東洋の中の日本には伝統的な、神がかりな強さがある、と考えるに至りました。

    このへんから軍事面での過度な自信が付いたと見込まれます。 しかし、富国についてはロシアや欧米諸国と比較してまだまだな状況でした。

  • ロシア・スローモーションレビュー

    プーチンによる侵略国家に何故ロシアがなってしまったのか、ごく最近の歴史を紐解いてみようと思います。

    引き金になったのはゴルバチョフによるペレストロイカのロシア国内での失敗と思われます。

    尚、自由諸国側からは、ペレストロイカは高く評価されていることが多いですが。

    このロシア国内での失敗に続く政変が現在の状況を引き起こしたのではないか。

    そこいら辺を再認識の為に、スローモーション的にレビューしてみようと思います。

    では。

    1917年のロシア革命以降、社会主義一党独裁国家として、経済面では、企業は全て国営、私有財産なし、製品(含む農産物)の生産は国の計画生産、製品やサービスの販売価格は厳しく国が統制かつ配給制。

    人々は商店の前に常に長い行列を作っていた。

    裏には闇市場があったと言われている。

    化石燃料を除くと、国全体としては貿易赤字。

    かつ西側諸国からの厳しい経済制裁もある状態。

    通常であれば供給に対し需要が上回る状態なので、インフレが発生するはず。

    しかし政府の厳しい価格統制のおかげで、インフレは発生していない。

    物不足により人々の生活が犠牲になっていた。

    このような状態が1986年に始まるゴルバチョフによるペレストロイカまで続いた。

    ペレストロイカ-1:

    1986年からソ連のゴルバチョフが始めたペレストロイカ。

    政治体制並びに経済が硬直化して国民が困窮している状態を改善しようとすることが目的でした。

    結果は残念ながら1991年のソ連の解体、ゴルバチョフの辞任という失敗に終わります。

    では、何故失敗したのでしょうか。

    ゴルバチョフは政治と経済をある程度自由化し、政治と経済の硬直化を改善できたらたら、国民の生活はよくなると考えました。

    そのためにペレストロイカと同時に国民に対する情報開示(グラスノスチ)も行いオープンな政治をめざしました。

    ソ連は共産主義国家でしたから、国民の私有財産を認めず、企業はすべて国営、物の生産計画はすべて国が管理、販売価格も全て国が決定。経済はすべて国の計画経済。

    労働者はいくら頑張って働いても、また多少さぼっても給料は一定。給料が一定なら、仕事は少ないほうが良いと多くの人が考えます、そこで生産現場は非効率なまま。改善や効率化は対象外。生産効率を上げて利潤を追求することはない。

    これは生産現場、販売最前線、物流業界、農業生産等全ての業種に共通でした。

    この状態を改善するためにゴルバチョフは一部に自由主義経済を取り入れました。

    物の価格の決定は従来からの国による価格統制ではなく、需要と供給のバランスから価格が決定されるという我々自由主義経済の人間からしたら当然の方式になりました。

    しかし、従来から非効率な生産形態から製品の供給量は不足したままで、商店には全く不十分な商品量しかない状態で、需要は多い。しかし価格は国からの統制を外れ、需要と供給のバランスから決定される形態に変更。

    品物の価格はどんどん上昇していきました。いわゆる供給不足によるインフレの発生です。このインフレの勢いはすさまじくて国民は物資を調達できなくなり、生活困窮に陥りました。従来からある闇市場でも価格は高騰していきました。

    ペレストロイカ-2:

    ゴルバチョフは当初は主要産業は国家の統制下に置きつつ自由市場と強力なセーフティネットとを混合した社会を目指し、目標が達成されるまでは10-15年かかると予測していた。最終目標はスカンジナビア・モデルに基づく社会民主主義国家の建設であった。

    しかし、G7やIMFの圧力により経済的ショック療法いわゆる「ビッグバン・アプローチ」が推進されることとなった。

    経済面に引き続き政治面に目を向けてみます。

    情報開示(グラスノスチ)により、人々は西側諸国の自由な生活が見えるようになりました。更に今まで恐怖政治により抑えられていた自由な思想や言論が可能になり、国の政治に対する批判の声が大きくなりました。

    ソビエト連邦は100を超える民族、15の社会主義共和国から構成されていました。それらの国々の中から次第に自治や独立の声が上がりはじめました。

    エストニア、リトアニア、ラトビアのバルト三国が先ず独立を果たします。

    引き続きカザフスタン、ジョージア、ウクライナも独立します。

    又東欧諸国にも大きな影響が発生しました。ポーランドではソ連からの呪縛が解けて1989年から自由選挙がおこなわれるようになりました。1989年11月9日にはベルリンの壁が崩壊、翌年には東西ドイツ統一が行われました。

    ソ連内部ではペレストロイカに反対する保守派によるクーデター未遂事件が1991年8月に発生しゴルバチョフは一時軟禁状態になりました。このクーデターにはゴルバチョフの側近達も多数参加していました。

    これに対し当時ロシア社会主義共和国の大統領であった急進派エリツィンが演説により民衆と軍隊を味方につけてクーデターを未遂に終わらせました。

    ゴルバチョフは1991年8月に責任を取って共産党書記長を辞任し、クーデターに関与していたソ連共産党を解党しました。更に同年12月にはソ連大統領を辞任、ソ連は解体されることとなりました。

    かくしてペレストロイカは未完成のまま終了しました。

    急進独裁のエリツィン登場

    初代ロシア連邦大統領として登場したのがエリツィンです。

    エリツィンは急進的に経済の自由化を進めました。

    国営企業の民営化を図るために、多数の国営企業を民間の有力者に極めて安い価格で払い下げました。この新しい経営者集団が現在のオルガルヒのもととなります。貧困にあえぐ一般国民とは全く対照的な富裕層ですが、人数はごく少数です。

    この経営者集団は政府と癒着します。全くやりたい放題です。かくしてソ連国内は国民のごく一部を占める企業経営者と、大多数を占める生活に喘ぐ一般国民の間に著しく貧富の差が拡大しました。

    ナオミ・クライン著の「ショック・ドクトリン」の中で述べられている「回転ドア」的なものが運用されていた可能性もあります。

    回転ドアとは、フリードマン経済学(シカゴ学派)により小さい政府を目指す国家が国営企業を民営化した後に現れる政府とその民営化された企業の癒着のことです。

    民営化された企業のトップと政府の役人が回転ドアを通して自由に行き来して、民営化した企業の利潤拡大に向けた法案作を役人が作り、回転ドアを通して該当企業の役職に就く。逆に、企業のトップが回転ドアを通って政治家となり、企業に都合の良い法案を作成する。これを繰り返して、巨万の富を築く方式です。

    やがてエリツィンは独裁的になり、オルガリヒの支持により1996年の大統領選に再選を果たします。エリツィンは汚職まみれになります、ロシアの改革は停止してしまいます。やがて体調を崩し、1999年に首相をプーチンに指名し辞任します。

    プーチンー1  登場(1999~2004年)

    プーチンはKGB(FSB)元長官時代に、当時大統領であったエリツィンを二度にわたり助けます。

    一つは汚職にまみれたエリツンのマネーロンダリング疑惑を捜査していた検事総長を女性スキャンダルにより失職させエリツィンを救いました。

    もう一つはエリツィンの失脚を狙ったクーデターを未然に防ぎました。

    これらによりプーチンはエリツィンの信頼を得て、首相に任命された。

    プーチンは第二次チェチェン紛争に大規模爆撃、弾道ミサイルによる攻撃など辣腕を振るい、「強いリーダー」のイメージを築き上げ国民の支持を得ました、しかし外側から見ると問題ありです。

    エリツィンが健康上の理由により引退するにあたり、プーチンは首相に引き続き大統領代行にエリツィンにより指名された。

    プーチンが大統領代行になって先ずやったことは、汚職エリツィンの不逮捕・不起訴特権を与えたことであった。これはプーチン自身が大統領を退いた後の政敵からの保身を見据えたものである。

    2000年大統領選挙で当選。中央集権化を進める。

    ロシアの主要輸出品である原油価格が高騰し、ロシア経済は著しく豊になり国民からプーチンは強い支持を得た。

    エリツィン時代のオルガルヒ(財閥集団)は政府と癒着し、納税回避を行うなど国家財政に著しい悪影響を与えていた。プーチンはオルガルヒと対峙し、企業の政治介入を防止、さらには殆どのオルガルヒを逮捕して制圧。ただしプーチンと親しいごく一部のオルガルヒのみは優遇された。

    プーチンー2 2期目(2004~2008年)

    2004年の大統領選で70%以上の得票率でプーチンは大統領に再選。

    引き続く原油価格の高騰によりロシア経済は著しく改善され、国外債務の返済も果たす。併せて保健、教育、住宅建設、農業の4分野の社会基盤整備を進め、これの推進役としてメドベージェフを第一副首相に任命。

    地方の知事を直接選挙制から大統領による任命制へと変更し、さらなる中央集権化を実施し大統領の権限強化を図ります。

    プーチンに対し批判的な人物の暗殺と思われる事件が相次ぐ。

    第二次チェチェン紛争でロシアによるチェチェン人への人権侵害を訴えた女性ジャーナリストのアンナ・ポリトフスカヤの殺害。

    プーチンを批判しイギリスへ亡命していた元KGB(FSB)職員アレクサンドル・リトビネンコの殺害。

    元オルガルヒでイギリスへ亡命していたボリス・ベレゾフスキーの暗殺未遂など。

    ロシアでは大統領は連続3選が禁止されているため、子飼いのメドベージェフを後継として支援することを表明。予定通りメドベージェフが次期大統領になる。メドベージェフにより予定通りプーチンを首相に指名。

    メドベージェフ大統領(2008~2012年)

    メドベージェフは大統領の任期を従来の4年から6年への変更を議会へ提案し承認される。

    次期大統領から任期を6年とすることとなった、これは勿論プーチンの差し金。

    プーチンー3 3期目(2012~2018年)

    クリミア半島併合

    2014年にロシアはウクライナの領土であったクリミア半島を併合してしまいます。

    しかしこれは国際連合、ウクライナ、日本を含む西側諸国は認めていません。

    クリミア半島は温暖な地で古くから保養地となっていました。

    同半島の南端ヤルタはチェーホフの「犬を連れた奥さん」の舞台にもなっていました。

    ここヤルタは第二次世界大戦末期1945年2月に戦後を見据えた世界秩序を決めたヤルタ会談が開かれた所でも有名です。出席者はイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長。

    なおこの時の極東密約として「日ソ中立条約」の一方的破棄、ソ連の対日参戦が決められました。

    このクリミア半島は第二次世界大戦終了から9年後の1954年に、当時のソ連共産党第一書記フルシチョフによりロシア共和国からウクライナ共和国へ割譲されました。

    表向きには当時のロシア共和国からウクライナ共和国への両国の友好の証。

    その裏にはロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたのです。

    1991年ペレストロイカ失敗によるソ連の解体に伴い、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳によるベロヴェーシ会談においてクリミア半島の扱いが協議された。

    出席者はロシアのエリツィン大統領、ウクライナのクラフチューク大統領、ベラルーシのシュシケービッチ最高会議議長。この会議の主要テーマはソ連解体に伴う「独立国家共同体(CIS)の設立であった、これに伴い国境も討議された。

    ウクライナは1954年にクリミア半島がウクライナに移管されていることを根拠に領有を主張、一方のロシアはもともとロシア領であったと領有を主張。

    ロシアはウクライナが核を保有しないことを条件にウクライナのクリミア半島領有を認めた。

    これによりロシアは黒海への出口をふさがれることとなった、これはロシアにとって地中海方面への出口並びに重要な不凍港を一つ失うことであった。

    ロシアにとって喉から手が出るほどに欲しいクリミア半島。クリミア半島の住民はロシア人が多数を占めている。

    クリミア半島が帰属しているウクライナ憲法では領土変更はウクライナ全土の国民投票によってのみ議決できると定められている。

    クリミア半島をどうしても入手したいプーチンは一計を案じた。

    クリミア半島のウクライナからの独立宣言を行わせ、独立国家としてクリミア半島の住民投票によりクリミア半島の帰属を決めることとした。

    2014年3月16日にクリミア半島のみによる住民投票が行われ、その結果ウクライナからの独立とロシアへの併合が決まった、とプーチンはした。

    これに対し、ウクライナは領土保全の訴状を国連安保理に提出するも、ロシアの拒否権行使により否決。引き続き国連総会決議に提訴、ここでは賛成多数で採択された(賛成100,反対11,棄権58(欠席24))。

    プーチンは国連総会決議を現在も無視し続けている。

    西側各国はロシアに対し経済制裁を実施。

    更に当時のG8(主要国首脳会議)メンバーからロシアを外し、再びG7とした。

    プーチンー4 4期目(2018~)

    2018年のロシア連邦大統領選では得票率76%で圧勝、任期満了は2024年となった。

    プーチンが2022年2月24日からウクライナを激しく侵攻しています。

    ロシアの歴史概要

    プーチンの頭の中には歴史的背景があるともいわれています。そこでウクライナ、ロシアその周辺国(ここではロシア地方と仮称、ほぼ旧ソ連と同じ範囲)の歴史概要を調べてみたいと思います。ロシア地方には100を超える民族おり、言語も同じく100以上あります。

    1.西暦862年ロシア地方に最初の国家ができました。「ノブゴロド公国」です。

    場所はエストニアの東に伸ばした直線とサンクトペテルブルグの南に伸ばした直線の交点のあたりです。

    住人はスラブ人やマジャール人など多種の民族でありましたが、彼らを抑え統治したのは北欧からバルト海を通ってやって来たヴァイキング(ノルマン人)です。

    そのヴァイキングの部族名がルスであり、これにちなんで地域名がルーシとなり、のちに「ロシア」という地名になったといわれています。

    2.882年ヴァイキングは更に南方のキエフ(キーウ)を征服し、「キエフ公国」が誕生、正式な国号は「ルーシ」です。

    但し、「ノブゴロド公国」も「キエフ公国」もこの時点では一地方政権に過ぎません。ロシアという国号が正式に生まれるのは18世紀初めのピョートル1世の「ロシア帝国」からです。

    「キエフ公国」は一族の内紛により次第に弱体化していきます。

    3.1240年モンゴル来襲により「キエフ大公国(ルーシ)」は跡形もなく滅亡します。

    モンゴル軍は抵抗した国に対しては全員殺害等の大変残酷な対応をしておりました。

    以降数百年間はキエフに無人のまま放置されていました。

    参考に日本への蒙古来襲は1274年と1281年です。

    4.新興した「モスクワ大公国」はモンゴルに隷属していましたが、1480年にモンゴルからの独立を果たします。

    5.1547年からモスクワ大公はツァリーと称します。

    親衛隊を組織し恐怖政治を行い、近隣の国家を征服。

    6.1613年にロマノフ朝が始まる。

    1670年農民反乱ステンカラージンの反乱を鎮圧し、農奴制の強化を図る。

    一時リトアニアに奪われていたウクライナ(かってのキエフ公国)の東部とキエフを奪還した。

    7.17世紀末にピョートル1世がツァリーとなる。

    ロシアが西欧諸国に伍していくにはバルト海に進出する必要があると、1712年首都をモスクワからサンクトペテルブルグへ遷都する。

    従来の「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となる。

    8.1812年アレクサンドル1世はナポレオンの侵攻を撃退。

    9.1856年クリミア戦争に敗北。これはバルカン半島の南下をめぐり、ロシアがオスマントルコ、イギリス、フランス、サルディニア連合と戦ったもの。ロシアの近代化の遅れが露呈された。

    10.1891年東方進出を狙いシベリア鉄道の建設開始。モスクワ~ウラジオストーク間。これにより、中国、朝鮮、日本と緊張状態となる。

    11.1904年日露戦争に敗北(実態は痛み分けに近い)。更に第一次ロシア革命勃発。

    12.1914年第一次世界大戦開始。第二次ロシア革命(二月革命、十月革命)

    1918年首都を再度モスクワへ移す。

    13.1922年ソビエト社会主義共和国連邦成立。当初ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカースの4か国から構成、後に15か国からの構成となる。

    14.1925年スターリンによる独裁体制開始。

    15.1941年第二次世界大戦開始。

    16.1991年ペレストロイカの影響によりソビエト連邦解体。ロシアは従来のロシア共和国からロシア連邦へ改称。初代大統領はエリツィン。資本主義経済、議会制民主主義を導入。

    プーチンが就任。チェチェン共和国の分離運動を激しく弾圧。

    17.2008年グルジア内の南オセチアが独立宣言をしたことからグルジア紛争が始まる。

    18.2014年無理やりクリミア半島を併合(国際的には未承認)。

    ウクライナの歴史概要

    プーチンの頭の中にはウクライナはロシアの一部であるとの思いがあるのではないかと思われる。そこで、ウクライナの歴史を紐解きたい。

    前回でロシアの歴史超概略を調べたが、キエフ公国がモンゴルにより1240年に滅亡された処まではロシアとウクライナに共通することなので、そこからのウクライナの歩みを明らかにします。

    ウクライナの歴史にはリトアニアが深くかかわります。

    リトアニアは現在バルト三国の最も南に位置する小国ですが、14世紀には現在のベラルーシ、ウクライナを含む大国でした。

    16世紀末にはリトアニアは西隣のポーランドと一体化し、リトアニア=ポーランド王国となり、16~17世紀には欧州で一番大きな国の一つになりました。

    リトアニアはインド=ヨーロッパ語族で、ポーランドはスラブ民族です。

    1.1240年モンゴル来襲により「キエフ大公国(ルーシ)」は跡形もなく滅亡。

    2.1362年リトアニア大公国が現在のウクライナ北部とベラルーシを占領。モンゴルは撤退。

    3.1569年ポーランド王国がリトアニア大公国を合併しリトアニア=ポーランド王国となる。呼称は主としてポーランドとなる。

    6.1648年と1709年にコサック出身の二人の頭領によりウクライナ独立戦争が行われたが失敗。

    5.1667年ロシアがウウライナの東部を占領。

    6.1795年ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの3国により分割されて国家が消滅。

    この時ウクライナの8割がロシア領に編入され、残りはオーストリアに支配されることとなった。

    7.1917年のロシア革命でバルト三国が独立。

    8.1918年第一次世界大戦終結と共にポーランドが独立。

    9.1922~1940年ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国他全15か国のロシア地方は全てソビエト連邦に吸収された。

    10.1932~1933年ホロドモールと呼ばれるスターリン政権によるロシア革命反対者への意図的な大飢饉がウクライナに発生、餓死者は400~1000万人と言われている。(これはジェノサイド(民族大量虐殺)であると2022年12月に欧州連合(EU)欧州議会で認定が採択された。)

    11.1954年クリミア半島がロシアからウクライナへソ連の第一書記フルシチョフにより移管される。

    12.1990年前後にソ連瓦解によりバルト三国、ウクライナ、ベラルーシ、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア、カザフスタン、キルギス、モルドバ、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、ロシアが独立。

    以上がウクライナの超概略史であるが、ウクライナは各国から度々占領され、かつ意図的な大飢饉に見舞われるなど、かなり悲惨な運命をたどってきたことが分かります。

    プーチンの主張

    1.ウクライナについて

    (1)2021年プーチンは一つの論文を発表した。それによるとロシア人とウクライナ人は「ひとつの国民」だと主張。

    (2)2022年の演説では、今のウクライナは共産主義時代のロシアが作り上げたもので、今や西側に操られている傀儡国家だとした。

    2.NATOについて

    (1)1997年以降にNATOに加盟した国々からNATOが部隊や軍事機構を撤去することを要求。(1997年以降のNATO加盟国は、中欧、東欧、バルト三国を指す。)。

    (2)NATOが「ロシア国境の近くに攻撃兵器」を配備しないことを要求。

    (3)もしウクライナがNATOに加盟すれば、NATOはクリミア半島を奪還しようとするかもしれないと主張。

    3.ソヴィエト連邦崩壊について

    (1)1991年12月のソヴィエト連邦崩壊を「歴史的なロシアの崩壊」だとしている。

    上記プーチンの主張から窺えるのは、

    1.ウクライナに対する認識には前回の「ロシア・スローモーションレビュー9」でウクライナの歴史を調べた限りでは全く客観性がない。

    2.NATOについてはかなり恐れている。

    3.ソヴィエト連邦崩壊については、崩壊以前の姿に戻したいのではないかと推察される。

    更にはロシア国内では強いロシアを顕示することにより、国民の支持を得ることを狙っていると思われる。しかし、国民の支持を得るには経済を立て直す方が効果的だと思えるのだが。

    要するにプーチンがウクライナを侵攻する理由が全く理解できない。

    何か精神的な問題があるのではないかとすら思ってしまう。

    何しろ世界中を困らせているだけなのだから。

    一刻も早くプーチンはウクライナから撤退すべきである!

    西側諸国はウクライナ側への戦争加担のみに走るのではなく、もっと戦争回避に動くべきである。

  • 湾岸諸国の近代史

    最近、イラク戦争に関するある記事が目に留まりました。

    タイトル:「【寄稿】イラク侵攻から20年の苦い教訓 考え抜かずに始められた戦争」 

    著者:リチャード・ハース米外交問題評議会名誉会長  翻訳:永田和男

    出典:読売クオータリー2023夏号

    以下に要旨のみをご紹介します。


    ■2003年に米国が始めたイラク戦争は、武力行使以外の選択肢を十分検討しないまま実施された、必要性を疑われる戦争だった。2001年の同時テロ後に米国を覆っていた特殊な雰囲気も冷静な判断を難しくしていた。

    ■米軍はフセイン体制をすぐ打倒したが、占領計画はずさんだった。民主主義が根付く土壌があるかなど、現地事情に関する無知は致命的だった。

    ■戦争は甚大な人的被害と経済的損失をもたらし、国連の支持なしに開戦に突き進んだことで米国の国際的立場を弱めた。その影響は今日の国際情勢にも及ぶ。

    ■米政府はイラクに大量破壊兵器があると嘘をついたのでなく、存在を信じていた。開戦には議会で超党派の支持があったが、だから正しい政策だったとは言えない。

    要旨は以上の通りです。

    これを読んで、日本からはやや遠い感じがする湾岸諸国の近代史概略をレビューしてみることにいたしました。湾岸諸国といっても今回は限られた範囲です。

    範囲としては以下の通りとします。

    1.イラン革命前後のイラン ・・・イランに発生した劇的な変化(1979年)

    2.イラン・イラク戦争       ・・・イラクによるイラン侵攻(1980~1988年)

    3.湾岸戦争                   ・・・クウェートに侵攻したイラクに対し、多国籍軍が攻撃

                                                 (1991年)

    4.イラク戦争前後            ・・・アメリカによるイラク侵攻(2003~2011年)

    イラン革命前後のイラン

    イランは昔ペルシャと呼ばれていました。紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャをはじめ、さまざまな王朝が入れ替わり、途中の7世紀からイスラム教が広まりました。

    1908年にペルシャで油田が発見され、この頃からペルシャの歴史は大きく変わります。

    1935年からイランという国号になりました、当時の王朝名はプフレヴィー朝といいます。

    そのパフレヴィー朝はアメリカ資本と組んで石油資源開発などを行い、その利益を王朝が独占する体制でした。ゆえに石油が出ても、国民の生活は向上しませんでした。それどころか、王朝に反対する人々を秘密警察により弾圧し、近代化の名のもとにイスラム勢力を弾圧し排除していました。

    1979年1月にイラン革命というのが発生しました。

    当時王朝と対立し、国外(フランス)へ追放となっていたイスラム・シーア派最高指導者ホメイニ師が国外からイランの反政府活動を指導し、1979年1月にパフレヴィー朝を倒し、翌2月に政権を掌握しました。パフレヴィー朝の皇帝はアメリカへ亡命しました。

    この時からイランはイスラム教シーア派の国家となります。

    この革命には続きがあります。アメリカへ亡命したパフレヴィー朝の皇帝の引き渡しをイランが要求したところ、アメリカが拒否。革命支持派の学生を中心とした民衆が激高し、イランのアメリカ大使館を占拠し、1979年11月に館員52名を人質としてしまいました。当時のアメリカ大統領カーターはこの人質の救出作戦を試みましたが失敗してしまいます。1980年7月にパフレヴィー朝の皇帝が病気で死去し、その後の1981年1月にやっと館員は444日ぶりに全員解放されました。

    ここでイスラムのスンニ派とシーア派についての基本的知識を記載します(出典:日本経済新聞社)

    ===========

    同じイスラム教徒でありながらスンニ派とシーア派の国はなぜ対立するのか。背景には原油などの経済利権を巡る争いもある。

    Q スンニ派とシーア派の違いは。

    A もともとは預言者であるムハンマドの後継者をめぐる考え方の違いがある。632年にムハンマドが死去した後、娘婿でいとこのアリを含む4人を最高指導者のカリフとして認めたスンニ派に対し、シーア派はアリとその子孫を正統な後継者と位置づける。世界のイスラム教徒人口のうちスンニ派が約8割、シーア派が1割強を占めるとされる。

    Q どうして対立するのか。

    A 必ずしも信者同士が互いを敵視しているわけではない。イラクなどでは異なる宗派同士が結婚することもしばしばだ。表面的には宗派対立でも、実は経済的な利権争いであることも多い。スンニ派の王室が支配するサウジアラビアでは東部の油田地帯にシーア派が多く暮らすが、経済的に冷遇されていると不満をくすぶらせている。

    イラクではフセイン政権の崩壊で多数派のシーア派が政権を握った。利権を失ったスンニ派旧支配層が過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭に手を貸したとされる。

    Q 対立が戦争に発展した事例もあるのか。

    A 1980~88年まで続いたイラン・イラク戦争はシーア派のイランによるイスラム革命の影響が及ぶことを恐れたサウジなどの湾岸諸国が当時はスンニ派政権だったイラクを後押しする構図だった。現在(2016年現在)進行中のイエメンやシリアの内戦も、中東地域の覇権を巡る代理戦争の様相を呈している。

    =============

    イラン・イラク戦争

    1980年9月~1988年8月、9年間にわたるイランとイラク間の戦争です。

    イランの歴史については「湾岸諸国の近代史―3 イラン革命前後のイラン」で簡単に御紹介しましたので、ここではイラクについて紹介します。

    「イラン・イラク戦争までのイラク超概略史」

    イラクは歴史で習ったシュメール人によるメソポタミア文明発祥の地とほぼ地理的に重なります。

    チグリス・ユーフラテス川下流域に発達し、紀元前3200年頃には粘土板に文字が刻まれていました。

    イランと同じく、紀元前6世紀アケメネス朝ペルシャの一部となっていました。

    7世紀からイスラム教が広まりました。

    様々な王朝による支配が続き、やがてオスマン帝国の一部となりました。

    第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、イギリスとフランス(サイクス・ピコ協定)によりオスマン帝国から分離され、イギリス委任統治領となり、その後イスラム・スンナ派のハーシム王家によるイラク王国となり独立しました。

    この辺の話は昔の映画「アラビアのローレンス」に出てきます。

    1927年に大規模な油田が発見されました。

    第二次世界大戦後の1958年のクーデターにより王朝が倒され、イラク共和国になりました。

    1979年からサダム・フセインが大統領となっていました。

    「戦争の原因」

    1.チグリス・ユーフラテス川、この二本の川が合流してシャッタル・アラブ川となりペルシャ湾に注ぎます。

    このシャッタル・アラブ川がイランとイラクの国境になっています。このシャッタル・アラブ川河口付近の石油積出港の領土問題と航行権でイランとイラクが争います。

    2.1979年にイランで発生したイラン革命、これによりイランはイスラム教シーア派の国になりました。イラクにもシーア派が沢山住んでいますが、政体はスンニ派でシーア派およびクルド人を抑圧して政権を維持していました。

    このシーア派によるイラン革命がイラクへ拡大移入されると、イラクの政体が危うくなるため、これの伝播を防ぐ必要がありました。

    「戦争の経緯」

    イラクが1980年9月22日未明にイランへ侵攻。アメリカはイランのアメリカ大使館人質事件でイランと対立関係にあり、更にイラン革命の輸出を恐れ、積極的にイラクを支援。

    イランはイラン革命以前では親米政権であったため、アメリカ製兵器を多数保持していた。これら使いイラックへ反撃。

    イラクは反撃してきたイラン軍に対し、毒ガス兵器を使用。イラン国内のクルド人がイラン側についたために、クルド人に対しても毒ガス兵器を使用。これにより多数の死傷者が発生。イランとイラクは隣国同士で互いにミサイルで攻撃しあうようになる。

    イラクはソ連、フランス、中国からも武器を多量に輸入する。

    1987年7月に国連安保理が即時停戦決議を全会一致で採択した。翌年両国がこれを受諾し1988年8月20日に停戦となった。

    1990年9月10日に両国の国交が回復。

    上述のようにイラクは毒ガス兵器を多用し、多量の毒ガス兵器を保持していることが判明した。毒ガス兵器は貧乏人の核兵器ともいわれ、第一次世界大戦から使用され始め、安いコストで大量に生産できるので国際的に十分な注意を払う必要がある。

    「現地駐在日本人救援」

    いくつかの日本企業がODA(政府開発援助)としてイランに、土木工事などでイラクに日本人が駐在していた。イラクのサダム・フセインが1985年3月17日に突然48時間後以降にイラン上空を飛ぶ飛行機は全て撃墜すると発表。

    イラクからは航空制限が無いので、各社の航空機を使用して脱出できました。

    イランに住む各国駐在員はイラン上空の飛行が48時間後に不可能になるので、慌てて日本人以外は自国の航空会社救援機又は自国軍救援機により脱出できました。

    しかし日本人は取り残されてしまいました。

    当時の自衛隊法では自衛隊機を派遣することは不可能でした。

    また日本航空を派遣しようにも安全が確認できないと派遣できないと、日本政府は判断してしまいました。

    在イラン日本大使館では救援機を派遣した各国と懸命の交渉をしましたが、各国とも自国民を救援するので手一杯で協力は得られませんでした。

    制限時間の48時間はどんどん迫ります。

    日本人救援は行き詰ってしまいました。

    土壇場になって、伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永氏が旧知のトルコのオザル首相に救援を依頼したところ、トルコから即座に救援機2機がイランへ派遣され、日本人が脱出できました、タイムリミットの1時間15分前のことでした。

    トルコが日本人の為に救援機を出した理由は1890年(明治23年)にトルコから日本へ親善訪問したフリゲート艦エルトゥールル号が、帰路和歌山県串本町沖で台風にあい座礁遭難し、その乗組員達を住民達が台風の中、必死になって救助介護したことへのお礼でありました。

    次回は湾岸戦争です。

  • ユダヤ人の歴史

    1.ユダヤ人の定義:

    ユダヤ人の定義はイスラエルの国内法によればユダヤ教を信じる人、または母親がユダヤ人であることとなっています。
    一方、ヨーロッパでは母親がユダヤ人でなくとも、父親がユダヤ人であればユダヤ人であるとして扱うことが多いです。

    現在全世界に約1,400万人のユダヤ教徒が存在します。イスラエルに680万人、米国に570万人、その他の国に200万人です。
    尚、イスラエルの人口は約950万人ですが、そのうちユダヤ人は約70%の680万人です、残りの30%はイスラエル国籍を持ったアラブ人などです。

    過去の人類学ではユダヤ人という人種が存在するという考え方もありましたが、現在では長い間の周辺民族との混血により、人種としての概念で捉えることには無理があります。
    ユダヤ人は、ヘブライ人又はイスラエル人とも呼ばれます。

    2.ユダヤ人発祥の地:

    ユダヤ人は古くからヨルダン川東岸の山岳地帯からカナンに進出していました。彼らの出目は不明です。

    旧約聖書ではノアの箱舟がアララト山へ漂着後、ノアの末裔が一族を引き連れてメソポタニア地方からカナンへ移住してきたことになっています。

    旧約聖書とは、紀元前1400年頃から約1000年間にわたる神とユダヤ民族との関わりの歴史と、救いの約束を描いた書物です。ヘブライ語で書かれ、ユダヤ教およびキリスト教の経典です。

                                                                       
           
    3.ユダヤ人のエジプト移住:

    紀元前17世紀頃、カナンの地が飢饉に襲われ、ユダヤ人はエジプトへ集団移住しました。
    当時のエジプト王朝はユダヤ人を優遇。しかし王朝が変わったことにより、ユダヤ人は迫害され奴隷となってしまいました。

    4.ユダヤ人がエジプト脱出しカナンへ:

    紀元前13世紀頃、モーゼに率いられたユダヤ人はエジプトを脱出し、
    カナンに再度定住しました。(映画:十戒)


                   
    5.ユダヤ人がカナンにヘブライ王国を建国:

    紀元前11世紀末にサウル王によりヘブライ王国が成立。
    紀元前1003年に第二代目の王ダヴィデにより周辺国を征服。
    その次の王ソロモンの時に全盛期となり、エレサレムに神殿を建設。
    (映画:ソロモンとシバの女王)


    6.へブライ王国の南北分裂:

    紀元前922年頃ヘブライ王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。
    紀元前722年にイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。
    南のユダ王国は紀元前586年まで存続します。

    7.ユダヤ人がバビロニアに連れ去られる(バビロンの捕囚):

    紀元前586年にユダ王国はバビロニア(メソポタニア地方)により滅ぼされました。この時多くのヘブライ人(ユダヤ人)がバビロンに連れ去られました(バビロンの捕囚)。
    このバビロン捕囚の間にユダヤ教を民族宗教として完成させました。
    その後紀元前538年にバビロン滅亡により解放され、50年ぶりにエレサレムへ帰還しました。エレサレムに神殿を再建し、ユダヤ教を信仰しました。


    8.ユダヤ教の教義:

    ・唯一絶対の神、ヤハウエのみを信じ、他のいかなる神も認めない。
    ・ユダヤ人はヤハウエから選ばれた選民である。(他の民族に対し排他的)
    ・神から与えられた律法(トーラ)を厳格に守ることにより共済される。
    律法にはモーゼの十戒の他に約600項目ある。古代ではこの律法を破ると死罪であった。
    例えば毎週土曜日を安息日としており、土曜日に敵が襲撃してきても交戦できず、そのまま殺戮されたり奴隷になったりすることも度々あった。
    ・救世主(メシア)の出現を信じる。
    ・旧約聖書のみが聖典である。尚、旧約聖書とはキリスト教での呼び名でユダヤ教ではタナハと呼ばれる。

    飲食が禁止されているもの:豚、血液、イカ、タコ、エビ、カニ、ウナギ、貝類、ウサギ、馬、宗教上の適切な処理が施されていない肉、乳製品と肉料理の組合せなどです。
    (チーズバーガー、肉入りシチューは当然ダメ、カニかまぼこもカニを連想するのでダメです)

    9.ユダヤ人がローマ帝国の支配を受ける:

    ユダヤ人は紀元前37年からローマ帝国の支配を受けます。ローマ帝国は当初は各民族の宗教には寛容であり、ユダヤ教に対しても最初は迫害することはありませんでした。ローマ帝国は紀元前6年にパレスチナを属州としました。

    10.イエス=キリストの登場と処刑:

    紀元前4年又は6年にユダヤ人のイエス=キリストが登場。ユダヤ教の革新を民衆に呼びかけました。(例えば厳しすぎる律法を死守することから自由になること、他の民族に対し排他的であることを止めるなど。)
    これに反発するユダヤ人も多かった、彼らがローマ人のローマ総督にイエスの処刑を訴え、更にローマ総督はイエスの活動がパレスチナの反ローマ感情と結びつくのを恐れ、西暦30年頃にイエスを処刑しました。
    イエスの教えは使徒たちにより少しずつ広められました。キリスト教は、始めはユダヤ教の一分派程度の位置付けでした。

    11.ユダヤ人がローマ帝国に対し蜂起:

    西暦66年から73年にかけて、ローマ帝国のユダヤ人への圧政に対し、ユダヤ人が蜂起しました(ユダヤ戦争)。中でもマサダの要塞に立てこもった約1000人のユダヤ人が最終的に自決しました(マサダの戦い)。
    この時エレサレム神殿がローマ軍により破壊され、それの残骸である壁が現在でも「嘆きの壁」としてエレサレムに残っています。
                


    12.ユダヤ人にローマ市民権が与えられる:

    西暦212年にユダヤ人にローマ市民権が与えられます。西暦313年にキリスト教と共にユダヤ教も認められます(ミラノ勅令)。
    西暦380年にローマ帝国がキリスト教を国教とします。
    キリスト教は帝国内で広まっていきました、一方ユダヤ教は厳しすぎる律法と排他性による衰退がはじまりました。
    キリスト教徒はイエスをユダヤ人が殺したとの誤解により、ユダヤ教徒への反感が高まっていきました。

    13.中世ヨーロッパのユダヤ人の離散:

    ユダヤ人の故郷パレスチナはローマ帝国以降も様々な国々の支配を受け、ユダヤ人は世界中に離散せざるを得ませんでした(ディアスポラ)。

    ヨーロッパの封建社会ではキリスト教徒荘園領主が土地を支配し、若干の保有地を持つキリスト教徒の農奴が耕作するのが原則であるため、ユダヤ人には土地所有の自由はありませんでした。そのため、ユダヤ人は都市に流れ込みユダヤ人居住区を作り、許されている数少ない職業につきました。

    例えば当時キリスト教徒には許されていない利子を取る金貸し業、医師、商店を持たない行商人、芸能人など。

    11世紀頃迄はユダヤ人は迫害を受けておらず、キリスト教徒と共存していました。

    14.第一回十字軍遠征からユダヤ人迫害始まる:

    1096年に第一回十字軍遠征が始まりました。目的はイスラム教徒からエルサレムを奪回することでした。ユダヤ教とイスラム教はキリスト教の敵と看做されました。

    この遠征途中でドイツのライン川沿いなどのユダヤ人が多く住む集落を遠征軍が襲撃し、キリスト教へ改宗しないユダヤ人は老若男女の区別なく自決又は虐殺されました。また略奪も度々行われました。

    ユダヤ人迫害の背景には、西欧では既にキリスト教社会になっており、その中で独自律法に厳しく閉鎖的な生活を行うユダヤ教徒は異端と見られていました。

    また、13、4世紀頃まではユダヤ人のみに許されていた利子を取る金貸し業で富を築くユダヤ人もおり、キリスト教徒から妬みを買うケースもありました。利子は年30~40%に及び、多くの債務者は担保物件を失いました。後の16世紀末に書かれたシェークスピアの「ベニスの商人」もこれを助長してしまいました。

    ヨーロッパ各国でユダヤ人に対する差別が幅広くおこなわれました。
    ・ユダヤ人衣服にバッジを縫付けたり、特別な色をした帽子の着用を義務付けられました。これはユダヤ教徒であることを明確にすることと、キリスト教徒とユダヤ教徒が性的な交渉を持つことを禁ずる意味もありました。
    ・ユダヤ教徒とキリスト教徒の同席飲食の禁止。
    ・ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止。
    ・ユダヤ人商店でキリスト教徒が肉や食料を買うことを禁止。
    ・ユダヤ人をゲットーと呼ばれるユダヤ人専用居住区への押し込め。居住区を囲む塀に門があり、昼間は門から出られるが、夜間には閉ざされました。
    ・15世紀末スペイン、ポルトガルにおけるユダヤ人追放令。それまではスペイン、ポルトガルには多くのユダヤ人が居住していました。

    また、イエスを殺害したのはユダヤ人であるとの誤った認識もありました。

    15.ペストの大流行

    1346年~1370年にヨーロッパでペスト大流行しヨーロッパの人口の1/3~1/4程度が死亡しました。この時ユダヤ人居住区の死亡者が少なかったため、ユダヤ人が毒を井戸に撒いていると噂されました。

    ユダヤ人にペスト患者が少ない理由は厳しい律法のおかげで、食事の前、外出後に手を洗う律法を厳しく守っていたからです。当時の一般的なヨーロッパの衛生状態はかなり悪く、これとはかなり異なっていたのが理由です。

    いざとなったら何をするか分からない異教徒集団と見られていたようです。

    16.フランス革命における人権宣言

    1789年に勃発したフランス革命で発せられた人権宣言によりユダヤ人もその国に生まれた市民と同等な権利が漸く認められるようになりました。各地のゲットも解放されました。
    しかし、ナポレオン帝国の崩壊により、元の木阿弥になってしまいました。

    17.ナチスによるユダヤ人虐殺

    1930年ドイツのヒトラーのナチ党により約600万人のユダヤ人が強制収容所に入れられ、大量殺害が行われました。

    18.イスラエルの建国(1948年)

    第一次世界大戦中の1917年に英国がユダヤ人に建国の約束したバルフォア宣言に基づき、第二次世界大戦後の1948年にパレスチナ地域(アラブ地域の一部)にイスラエルが建国されました。

    しかし、このバルフォア宣言には現在にも大いなる禍根を残す矛盾がありました。
    このバルフォア宣言以外に英国はサイクスピコ協定、フサイン・マクマホン協定を締結していました。これら三つの協定の概要は下記の通りです。この三つの矛盾した協定を英国の三枚舌外交と呼ばれています。

    フサイン・マクマホン協定(1915年)
    ・内容:オスマン帝国敗北後の跡地のアラブ地域に、アラブ人居住地の独立支持を約束しました。
    ・目的:オスマン帝国と交戦中の英国がアラブ民族を味方に付け、オスマン帝国を内部から攪乱させる。(映画:アラビアのローレンス)

    サイクスピコ協定(1916年)
    ・内容:英国が交戦中のオスマン帝国の跡地を英国、フランス、ロシアの三国で分割する約束。ロシアはロシア革命勃発により抜けたので、英国とフランスでの分割に至りました。
    ・目的:オスマン帝国の跡地からアラブ人を締め出して、英国、フランス、ロシアで占有。(実際は英国とフランスで二分)

    バルフォア宣言(1917年)
    ・内容:ユダヤ人に対し、パレスチナにユダヤ人居住地(ナショナルホーム)を作ると約束しました。
    ・目的:トルコ帝国と交戦中の英国がユダヤ人富豪から戦費を引き出す。
    (映画:栄光への脱出)

    19.第一次、二次中東戦争

    パレスチナへのイスラエル建国により、アラブ人とユダヤ人の対立は深刻になりました。アラブ人はイスラム教徒、ユダヤ人はユダヤ教徒です。
    1947年に国連によりパレスチナ分割が議決されました。
    これはパレスチナの人口の1/3に過ぎないユダヤ人に、半分強の土地を分割するというアラブ人には納得できない内容でした。

    第一次中東戦争(領土争い):1948年にパレスチナへユダヤ人がイスラエルを建国したことにより、領土を奪われたアラブ側がイスラエルと交戦。イスラエル側は最初は不利でしたが、最終的にはイスラエルの全面的な勝利となり領土を拡張し、アラブ人の領土はますます狭くなりました 。

    第二次中東戦争(スエズ動乱):1956年エジプトのナセル大統領が英国とフランスに経営権を握られていたスエズ運河の国有化を宣言。英国とフランスの支援を受けたイスラエルがシナイ半島を占拠。
    しかし、アメリカ・ソ連を中心にした国際世論が英国・フランスを非難し、これを受けてイスラエルはシナイ半島から撤退、更にエジプトによるスエズ運河国有を認めた。以降アラブ勢力はナセルを中心に展開しました。


    20.第三次、四次中東戦争

    パレスチナ解放機構(PLO)が1964年に発足し、アラファトが1969年に議長となりました。

    第三次中東戦争:1967年イスラエルは突然6日間という短期間にシナイ半島、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領。
    これはアラブによる国土奪還を目指すパレスチナ解放機構(PLO)がエジプト、シリアの支援により1964年に結成されたことに対する反撃が狙いです。
    ナセルはこの敗北により権威が失墜し、間もなく死去しました。

    第四次中東戦争:ナセルの後を継いだエジプトのサダトは1973年にイスラエルへ奇襲攻撃を行い、シナイ半島のイスラエルからの返還を実現しました。しかし、ヨルダン川西岸およびガザ地区へは既にイスラエル人の入植が進み、そこの奪還は出来ませんでした。

    21.パレスチナ解放機構(PLO)

    1964年にエジプトのナセル大統領などのアラブ連盟(加盟現在21ケ国)の支援を受けてパレスチナ解放機構(PLO、主流はファタファ)が組織されました。1969年からアラファトが議長となり、対イスラエル・ゲリラ戦を積極的に展開しました。

    やがてPLOは活動の拠点をレバノンのベイルートへ移します。
    PLOの内部に更に過激なPFLP(パレスチナ解放戦線)が現れ度々ハイジャックなどを繰り返しました。これに協力した日本赤軍が1972年5月にイスラエル・テルアビブ近郊の空港で無差別銃撃事件を引き起こしました。

    イスラエル側もこれに反撃し、PLOの活動家やアラブ人を度々攻撃しました。

    1982年にPLOは活動拠点を更にチュニジアのチュニスへ移します。

    PLO不在になったパレスチナで1987年ハマスが台頭。

    22.アラファトの国連演説(二国共存)

    1988年アラファトは国連で「パレスチナにおける二国共存」演説を行い、従来のテロ行為の放棄とイスラエルを認める旨を表明しました。

    23.オスロ合意

    1992年イスラエルの総選挙で25年ぶりに労働党が政権を奪取しラビンが首相になりました(参考:現政権のネタニアフおよび前政権のシャロンは共にリクード党)。ラビンはかねてから親交のあったノルウェーの外相の仲介によりオスロでPLOとの秘密交渉を1993年から開始しました。
    その結果両者は相互承認を行い、1993年9月にワシントンのホワイトハウスでクリントン大統領立ち合いのもとで、ラビン首相とPLOアラファト議長との間で「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」が調印されました。

    合意の主な内容は次の通りです。
    (1)イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。
    (2)イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。
    翌年ラビン首相とPLOアラファト議長はノーベル平和賞を受賞しました。


    24.オスロ合意の後のラビンとアラファト

    残念なことに1995年にラビン首相は狂信的なユダヤ教徒の青年に暗殺されてしまい、和平プロセスは大幅に遅れることとなりました。

    アラファトは1994年にガザへ戻りパレスチナ暫定自治行政府議長となりました。
    しかし、アラファトはゲリラ戦の指導者としては優れていたが、統治者としての手腕はかなりお粗末であったようです。
    人事権をはじめ、権力を一手に握るワンマン体制、腐敗、汚染構造、情実政治などの独裁政治に陥りました。
    地元住民の不満の強まりとともに、アラファト自治政府に見切りをつけて、現状打破の底流が生まれます。

    しかし、2000年にオスロ合意は決裂してしまいます。

    25.ハマスの台頭

    宗教的色彩の薄かったPLO(ファタファ)と異なり、過激なイスラム原理主義に基づいたハマスが2006年の総選挙で第一党になります。
    しかし、ハマスとファタファの内紛により、パレスチナはハマスのガザ地区とファタファのヨルダン川西岸地区に分裂してしまいました。

    2006年にイスラエルはガザ地区を経済封鎖してしまいます。

    ハマスは元々はムスリム同胞団の流れをくんでおり、教育、医療、貧困の救済、職業訓練、奉仕などのイスラム教の理念である助け合いを実践する団体でした。戦争の明け暮れたPLOに飽き足らないパレスチナの民衆に強く支持されていました。

    2007年まではハマスとファタファは連立政権をくんでいました。その間はハマスはイスラエルへの攻撃を自粛していました。

    しかし、2008年以降ガザ地区のハマスとイスラエルは相互に攻撃の応酬を行っています。

    ガザ地区にはハマスより過激な武装組織が約10組織程度あると言われています。それら間の相互の衝突もあります。

    26.まとめ

    今から約3千年前にパレスチナ地域に住み着いていたユダヤ人が世界中に拡散せざるを得なくなり、ようやく1948年に建国を果たしました。
    しかしそこには既にパレスチナ人が居住していました。

    イスラエルの人口約950万人、パレスチナ人の人口約547万人(ヨルダン川西地区325万人、ガザ地区222万人)。
    イスラエル:パレスチナの人口比は約1.7:1です。

    面積はイスラエルとパレスチナを合わせて約2.8万平方キロメートルです。これは日本の四国(約1.9万平方キロメートル)の約1.5倍の広さです。

    イスラエルが約2.2万平方キロメートル(四国の約8割程度)。
    パレスチナが0.6万平方キロメートル(ヨルダン川西地区0.57万平方キロメートル(三重県程度)、ガザ地区0.03万平方キロメートル(千葉県市原市程度))

    イスラエル:パレスチナの国土面積比は約3.7:1です。

    人口密度はイスラエル432人/km2
             パレスチナ913人/km2
                  
    (ヨルダン川西岸570人/km2、ガザ地区7400/km2

       参考:東京都6287人/km2、神奈川県3814人/km2
          千葉県1224人/km2、京都府545人/km2、三重県309/km2
          長野県152/km2、北海道62/km2、千葉県市原市717人/km2、   
            
    日本全体333/km2

    ユダヤ人は国家を何とか建設できましたが、いまだ国を持たない民族もいます。

    代表的な民族はクルド人です。人口は約3500万人と言われ、トルコ、イラン、イラクなどに多く分散居住しています。
    西暦10世紀前後には王朝を建てて自立していましたが、その後王朝は滅亡し、未だ。国がありません。国を持たない中で最大の民族と言われています。

  • 日清戦争~日英同盟

    日清戦争(1894-1895 明治27-28)

    これは中国(当時は清国)との朝鮮半島奪い合いです。朝鮮は当時中国を宗主国とし植民地化されていました。

    日本は以下の二つの理由で朝鮮半島を必要としていました。

    一つ目は朝鮮半島に於ける権益拡大、即ち植民地化。

    二つ目は当時ロシアが東岸で南下政策を取っており、これから日本国土を守る為の緩衝地帯として。

    前提として、日本と中国間に締結された天津条約があり、これは中国又は日本の一方が朝鮮へ軍隊を派遣する場合は、相手方にも事前通告し軍隊の派遣を認めるというものです。

    朝鮮内部の反乱発生により、これを押さえるために中国と日本が出兵。
    反乱鎮圧後、中国と日本でその後の朝鮮の取り扱いで意見が異なり日清戦争に至りました。

    結果は日本の圧勝。日本は朝鮮の独立(実質植民地化)、台湾及び遼東半島を入手。日本の国家予算の3年分相当の賠償金を獲得しました。

    しかし、遼東半島は後に三国干渉(ロシア、フランス、ドイツ)の圧力により返還させられてしまいました。

    日清戦争の勝利により、日本は軍事力に自信を持ちました。同時に西欧諸国(含むロシア)には中国の軍事力が脆弱なことを知らしめた結果となりました。

    日本には三国干渉により遼東半島を取られた悔しさが残り、ますます軍事力強化へ進む。

    三国干渉で遼東半島が取られた顛末は以下の通りです。

    首謀者はロシアがフランスとドイツに声をかけました。

    ロシアは当時南下政策を取っていました。理由は遼東半島にある大連、旅順などを租借し不凍港を確保するためです。しかも日本から遼東半島を取り返してやると中国に恩を売ることが出来、満州での鉄道敷設権などを得ることが出来たのです。フランスとドイツは中国から様々な権益を得る為に悪乗りしました。英国は日本が早くから手を結んでいたので、加わりませんでした。


    閔妃(みんび)暗殺事件(1895年)

    朝鮮王朝は二つの派閥が闘っていました。

    一つは爺様(大院君)、もう一つは爺様の息子(高宗)の嫁さん(これが閔妃)。

    爺様は日本寄り。閔妃は最初は中国寄り。しかし、日清戦争で中国が負けてからは急遽ロシア寄りにかわりました。

    この閔妃のパワーが凄く、爺様派閥や日本からはかなり邪魔な存在になりました。

    賊が王宮に押し入り閔妃を殺害してしまいました。

    下手人は今も諸説あり、日本人、爺様派閥の人、またはその合同などです。日本は何らかの形で関わっていた模様です。更には、閔妃は43歳の別嬪であったらしい。確実な写真は無い模様で、閔妃殺害後、その亭主(国王)は在朝鮮ロシア大使館で執務にあたっていたそうです。
    日本にとってロシアはかなり危険な存在でありました。

    日英同盟

    次は日英同盟(1902年 明治35年)です。
    当時日本国内では日露協商論と日英同盟論に二分されていました。日露協商論は伊藤博文と井上馨が主張、日英同盟は山縣有朋と桂太郎が主張。

    日露協商論は日本は朝鮮半島を取り、ロシアに満州を譲るという協調路線。

    日英同盟はロシアは信用出来ない、満州にとどまらず朝鮮更には日本へ侵攻して来る可能性が高いとし、牽制のために英国と同盟を結ぶ、つまりロシアとは対立路線。

    桂太郎内閣は日英同盟を推し進め、日露開戦を想定し軍備拡張を進めました。

    日英同盟の主たる内容。日英どちらかが第三国と交戦した場合は、他方は中立を守る、というものでした。

    これで日本がロシアと戦っても英国は中立を守ることになる訳です。兎に角その頃は英国が群を抜いて強いですから。

    日英同盟について、内村鑑三は日本が英国と組んで更なる侵略行為に走ると危惧。

    夏目漱石は玉の輿に乗った女が嬉しそうに騒ぎ回る、と皮肉りました。

    ここいらで、日清戦争当時の政治、経済、国民の気持について調べようと思います。

    先ず政治。この頃はまだ政治が軍事をリード出来ていたようです。

    日清戦争直前に史上初の大本営が設置されました。

    枢密院議長、首相、外務大臣も列席。軍人のみではありませんでした。

    更に当時の指導層は元士族であり、彼等は政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育ったため、政治指導者は軍事に理解があり、軍事指導者には政治に理解が有りました。

    後の世のように軍事専門教育のみを受けた軍事エリートのみで構成された集団ではありませんでした。

    全体として政治が主導し、軍事がついてゆく構造でした。

    では経済。

    経済の元となる国民の質。よく言われるように、江戸時代末期の国民の教育レベルの高さ。身分別人員構成比では武士が全体の6%、工商が6%、農民が86%と言われています。

    しかし全国民の修学率は男子43%、女子10%といわれる。

    これは全国に1万以上有ったと言われる寺子屋のおかげ。読み書き算術が主として教えられていました。また士族相手には全国に200を超す藩校がありました。

    明治政府になってからも教育にかなり力を入れており、明治4年に文部省設立。明治8年には2万4千校の小学校を設立しています。なかなか当時の人は良く考えていたようです。

    西欧の帝国主義に飲み込まれて多くのアジア諸国のように植民地にならないための強兵策。この強兵策のバックボーンとなる富国策。

    産業を起こし発達させる為に、優秀な外国技術者を超高給で沢山雇い入れて、指導に当たらせました。総理大臣級の給与よりも高給で雇ったそうです。

    ご存知の通り最初は繊維産業、次に日清戦争の賠償金で重工業(まず八幡製鉄所)。

    日清戦争になっても徴兵数は少なく、しかも派兵期間も短かったため、国内労働力に大きな影響は無かったようです。寧ろ、当時国内労働力は余剰な状態でありました。

    日清戦争の賠償金により日本国内は潤いました。

    しかも日英同盟により、国際的な安心感が政府および国民に蔓延。

    しかし、勿論現実には女工哀史、口減らしの為の赤線商売などは多く存在していました。

    しかし、西南戦争により政府の財政状況は一挙に苦しくなり、戦費調達の為に不換紙幣などを乱発。所謂「悪貨は良貨を駆逐する」状態になり、物凄いインフレとなりました。これを解決するために、松方大蔵大臣は不換紙幣の回収焼却、増税、金融引き締め策を実施。その結果当然激しいデフレとなりました。

    このデフレで大きな影響を受けたのは農民。江戸時代は税金は米など農作物で納めていたが、明治政府になってからは紙幣で納税。ところが、デフレで農作物は超安値でしか売れず、納税がままならず、破綻。今迄自作農家であった農家が、豪農に自分の農地を売り渡して、自分は豪農の元で土地を持たない小作農家になり果てるケースが相次ぎました。士族と農民にとってはかなり厳しい時代となりました。

    別の角度から見れば、農地、農民の集約化が著しく進みました。

    この時代の国民の気持の代表としては一般人では全くありませんが、啓蒙思想家の福沢諭吉さんですね。私は小学生の頃北九州市におり、修学旅行で中津の福沢諭吉の生家に行った覚えがあります。ご存知のとおり西洋思想(特に英国)を持ち込みました。勝海舟とは随分仲が悪かったようです。

    番外 西南戦争

    西南戦争1877年(明治10年)について。

    事の発端は西郷隆盛と盟友大久保利通の政治に関する意見の決別です。

    二人とも薩摩藩出身。歳は西郷が2歳年上。

    大久保が岩倉使節団として1871年(明治4年)-1873年(明治6年)に米国欧州を視察している間に留守を預かっていたのは西郷。その間に大久保から西郷に対し留守中は大きな変革を行わないことを西郷と約束。

    しかし、その間西郷は大きな変革を幾つも遂行、大久保は西郷に不信感をもつ。大久保帰国後は韓国に対する扱いでも意見対立(西郷の征韓論)。大久保は広く欧米を視察した結果、先ず国内の富国が最優先と判断。

    この対立により西郷は役職辞す、この時西郷を慕う政治家、軍人、官僚600人が同時に辞職。

    西郷は鹿児島にこもる。

    もう一つの重要な背景が、従来の士族階級の状況。明治4年に中央集権化及び財政改革を目的に行われた廃藩置県。これにより士族の特権は無くなり、不満を抱える元士族が西郷の元に集まる。江戸幕府の頃は国の歳入の4割が人口5%しかいない士族に配布されていた。

    西郷は集まった不満士族の反乱を防ぐ為に鹿児島で私学を設立して教育にあたる。しかし、これが反乱の準備と大久保に見做される。

    大久保が西郷の暗殺を試みたことが発覚し、西南戦争への引き金となった。

  • 江華島事件と台湾出兵

    日清戦争の前夜の話しです。

    明治政府初の海外出兵である1874年(明治7)の台湾出兵と1875年(明治8)の江華島事件(朝鮮西岸)です。

    台湾出兵は現在の沖縄県の宮古島島民が台湾に約50名漂着した際に原住民に殆ど殺害されたことに対する報復です。


    江華島事件は江華島付近で日本の軍艦が砲撃されたことへの報復です。
    が夫々表向きの理由です。

    台湾出兵については、当時琉球は中国と日本の両方に帰属する存在でありましたが、日本はこの機に乗じて日本のみに帰属させることが真の目的であり、成功しました。

    一方の江華島事件は江戸時代までは朝鮮と日本間で国交が有りまあしたが、明治維新後、日本が明治政府になってからは朝鮮との国交を拒否されていました。

    これを復活させることが真の目的で、これも成功しました。

    これらは両方とも日本の対外膨張路線でした。 この二つの海外出兵の成功で対アジアについて日本は自信を付けました。即ち明治維新以来の強兵策が功を奏した訳です。

  • 文化露寇(1806~1807)

    1806年(文化3年)日清戦争の前々夜、ペリー来航の50年程前の話しです。

    江戸時代の長い平和が続き、文化、商業が花開いていた頃、樺太、択捉にある幕府の拠点が突如通商条約を求めるロシア軍艦に襲撃略奪され、幕府は殆ど抵抗出来ませんでした。

    ロシアをはじめ西洋諸国はその頃づっと対外戦争を続け、武器は近代化され、一方の幕府の武器は戦国時代のまま、200年間進歩ありませんでした。更に西洋に関する研究も殆どされておらず、正に絵に描いたような井の中の蛙でした。しかもこれでも江戸幕府という軍事国家でした。

    ロシアが通商条約を要求した目的は、当時ロシアでは毛皮採取のためのラッコ漁が盛んでアリューシャン列島、アラスカで盛んに漁を行っていました。

    しかしこの辺りでは食料入手が困難なため、日本から食料調達の目的で通商条約締結を望んでいました。

    その約50年後に米国と平和裏に日米和親条約締結、明治維新を迎え、今迄とは打って変わって軍事強化策となったのはご存知の通りです。極端から極端への素早い方針転換ですね。第二次世界大戦前後の変化と丁度真逆の方針転換ですね。

    もしかしたら、日本国民は極端から極端への変化が癖なのかもですね。