カテゴリー: 日本近代の戦争の事情

日本の明治時代直前から第二次世界大戦へ至るまでの経緯

  • 防げなかった第二次世界大戦

    第一次世界大戦終決後、アメリカのウィルソン大統領を主とした提案により国際連盟が発足したのはご存知の通り。

    そこにアメリカは自国の議会の承認が得られず、参加出来なかったという驚くべき状況が発生したのもご存知の通りです。

    では、何故そのようなめちゃくちゃなことが発生したのか。

    当時のアメリカは現在からは想像出来ない程保守的でした。当時から約100年近く前のモンロー大統領の提案によるモンロー主義が深く根付いていました。これは端的に言うと、「アメリカは外国に干渉しない、外国はアメリカに干渉するな。」というものです。共和党の政策です。

    一方、ウィルソン大統領は民主党で対外政策に積極的でした。当時議会は共和党が主流。

    国際連盟の規約に集団安全保障の条項があり、議会は他国の騒動に巻き込まれることを拒否し、国際連盟への加盟を拒否してしまいました。

    当時アメリカは世界一の工業国になっており、軍備も最強でした。

    しかし、言ってみると、自分たちだけ安全であれば良い、他のことは知らんと言う事でしょうか。

    アメリカは自国が戦場にならず、血を血で洗う経験をした欧州諸国とはかけ離れた気持でした。

    誠に残念ながらウィルソン大統領の高邁な精神は本国では理解されませんでした。

    これにより国際連盟は世界最大の実力を持つアメリカの参加なくして運営せざるを得ず、後々禍根を遺すこととなりました。

    当時のアメリカの保守性について

    アメリカは自国外が戦場となった第一次世界大戦で景気が大変良くなりました。大量生産、大量消費の時代の到来です。

    保守性は益々進み、繁栄の渦から他民族を差別し追い出す動きが盛んになります。

    社会の中心階層をWASP(ワスプ)と呼ばれる人々で占めるようになります。

    W:ホワイトつまり白人

    AS:アングロサクソン

    P:プロテスタント

    このワスプに該当しない人々を締め出そうとします。

    また、K・K・K(くー・クラックス・クラン)という反黒人組織が南北戦争後に発足しましたが、これが再来し、黒人ばかりでなく、中国系や日系に対する迫害を行うようになりました。

    1924年には移民法が制定され、アジア系の移民が全面的に禁止されました。

    また、ピューリタン的な意向を反映して禁酒法も制定されました。

    この禁酒法が主としてイタリア系移民からなるギャングの暗躍の背景となったのはご存知の通りです。

    好景気に沸く大量生産・大量消費の裏側にはかなり閉じた社会構造がありました。

    イタリアでファシズムが台頭

    舞台は戦勝国イタリアです。

    イタリアは国土の一部がオーストリアに占領されていましたが、「イギリス側に寝返ればその国土をイタリアへ取り戻してやる」と言われてドイツ・オーストリアを裏切ったのでしたね。

    しかし、第一次世界大戦後にオーストリアに占領された国土の一部はイタリアに返還されましたが、残る一部は国際連盟の管理下に置かれることとなり、イタリアは不満を持つことになりました。

    更にイタリアは第一次世界大戦中に大量の物資を前線に送った為に、国内は物資不足になり、労働者の賃金は安く、失業者の数もふえ、深刻な不況になりました。

    そこで北イタリアの工場ではストライキが頻発。

    それを政府が鎮圧。しかし、その政府の実権を握っていたのは社会主義政党でした。

    労働者の味方である筈の社会主義政党が労働者を弾圧したことで、社会主義政党は国民の支持を失いました。

    そこで登場したのが、ムッソリーニが率いるファシスト党です。反社会主義です。

    社会主義になると工場、土地などが国有化されるため、資本家などの富裕層からファシスト党は人気が有りました。

    ムッソリーニは国家による統制経済を行うと宣言。

    仕事がない者には仕事を与える、物価が高ければ価格調整を行うと宣言しました。

    これにより、富裕層ばかりでなく、下層階級からも支持を得ました。

    更に、イタリアが一つに纏まらない理由は人々が選挙でバラバラな政党を選ぶからだとし、議会制民主主義を否定し、ファシスト党による一党独裁を主張し、取り入れに成功。

    ファシスト党がさまざまな問題を解決するので、国民は勝手な事を言うなと、言論の自由を抑圧しました。

    政府はこれを鎮圧しようとしましたが、国王がそれを許さず、ムッソリーニは首相に就任しました。



    アメリカで大恐慌が発生

    1929年です。これは現在では信じられませんが、株式は当時づっと上がり続けると人々に信じられており、ある日を境に全ての株式が暴落し始めました。

    日本でいうと2000年の少し前までの土地神話状態ですね。

    これは瞬く間に世界中に広がりました。

    この時各国が取った対策は、本国と植民地の間のみで貿易を行い、他国は一切締め出すというものです。ブロック経済と呼ばれました。

    これはイギリスやフランス等のように植民地を沢山持っている国には良いが、ドイツなどのように植民地を持たない国はたまりません。

    日本はアメリカで大恐慌が発生する数年前から輸入超過などによる不況に陥っており、更には関東大震災も重なり、そこにアメリカの大恐慌のあおりも大きく受け、全く疲弊した状態でした。

    日本にはブロック経済を行う貿易相手になるような十分な植民地は有りませんでした。

    ドイツのナチ党

    ご存知ヒトラーのナチ党、これは日本語では国民社会主義ドイツ労働者党と言います。

    考え方は、失業問題や経済格差などの社会問題を国家が中心になって(独裁で)解決すると言うものです。

    反ユダヤ主義、反共産主義、植民地の再分割がスローガンです。

    ユダヤ人については、ユダヤ人のせいで貧富の差が発生しているとしました。当時ユダヤ人は銀行家など裕福な人も沢山いました。

    植民地については、第一次世界大戦で失った植民地を取り戻そうともしていました。

    先に記載したイタリアのファシスト党と同じ種類の思想です。ドイツのナチ党は中間層や軍部から支持がありました。

    その後ナチ党はミュンヘン一揆というクーデタを起こしましたが、失敗しました。

    ドイツ人は一般にルールを破ることを嫌うので、国民からの支持が得られなかったようです。

    そこで合法的に選挙で戦うこととし、1932年の選挙で第一党に選ばれました。

    その前の1929年に発生した世界恐慌、及び第一次世界大戦で課せられた天文学的な額の賠償金のせいでドイツ国内の経済が全くめちゃくちゃであり、膨大な失業者に溢れている状況が選挙の追い風になったようです。

    翌年の1933年にヒトラーは全権委任法を成立、これはヒトラーに行政権と立法権を委ねるというものです。これでドイツはヒトラーの自由自在になりました。

    これ以降ドイツは第三帝国とも呼ばれるようになります。

    最初はイギリス、フランスなど第一次世界大戦戦勝国は黙って見ていました。

    その理由はファシズムの思想の中に「反共産」があるからです。ソ連の共産主義思想が西側諸国に及ぶのをなんとしてでも防ぎたかったのです。

    更には東欧諸国の独立も相次ぎましたが、これらの多くの国々では独裁国家が多くありました。民主主義国家だと選挙で共産主義国家に転じてしまう可能性がある為、これを防止するために敢えて独裁国家造りを進めたのです。

    東欧諸国は西側自由圏とソ連共産圏の中間バッファとされていたのです。

    ドイツは第一次世界大戦の敗戦により、軍備を厳しく制限されていました。

    ヒトラーはこれに不満を表明、大国間の軍備平等権を主張しましたが、国際連盟はこれを認めず。1933年10月にドイツは国際連盟を脱退。尚、後にのべますが、日本は同じ年の2月に既に国際連盟を脱退しています。

    ドイツは再軍備宣言を行い、徴兵制を復活させました。

    そこで警戒したのは西隣りのフランス、第一次世界大戦でドイツに攻め込まれてさんざんな目にあった過去がありました。フランスはドイツを挟み、ドイツが動けなくなることを目的にソ連と仏ソ相互援助条約を締結。更にはドイツの南に位置するチェコスロバキアとも同盟を組み、ドイツを東西南の三方から囲み込みました。

    一方イギリスは独自路線をとります。ドイツと英独海軍協定を結び、事実上ドイツの再軍備を認めました。その理由はフランスが仏ソ相互援助を結んだことで、ソ連が力を増すことを恐れ、ソ連を押さえ付ける役割をドイツに期待したのでした。

    その後ドイツはドイツ西側の非武装地帯ラインラント地方に軍隊を各国の反対を押し切って進駐させました。

    ドイツと同じファシズムのイタリアは経済回復に失敗しました、世界恐慌のあおりを喰らったためです。イタリア国民の目を逸らすために、アフリカのエチオピアへ侵攻しました。しかしこれは国際連盟から避難され、経済封鎖を受けることとなり、欧州での孤立を深めることとなりました、これでイタリアとドイツは似た境遇になりました。

    一方スペインではファシズムを支持するフランコ将軍による大規模な反乱、即ちスペイン内戦が発生、フランコ対人民戦線です。

    これに対しドイツ、イタリアはフランコ側を支持し積極的な軍事援助を行いました。

    一方ソ連は人民戦線側を支持。ソ連以外の各国からも義勇兵が国際義勇軍として参戦しました。ヘミングウェイの小説「誰がために鐘は鳴る」、ピカソの絵画「ゲルニカ」の舞台です。

    この戦いはファシズム対反ファシズムの戦いとなりファシズム側が勝利しました。

    この時、イギリスとフランスは不干渉政策を取ります。その理由はドイツ、イタリアがソ連を倒してくれるかもしれないという淡い期待を抱いていたからです。ファシズムは反共産主義ですから。

    このイギリス、フランス他の不干渉政策が後に大きな禍根を残すことになります。

    イギリス、フランスのファシズムへの不干渉を見たヒトラーは自分の政策に自信を持ちました。

    ドイツはドイツ系住民が住むオーストリアを併合します、これについてもイギリス、フランスは相変わらず反共に期待しドイツを咎めません。

    次にドイツはチェコスロバキアの北部でやはりドイツ系住民が多いズデーテン地方を併合します、これに対してもイギリス、フランスは宥和政策をとり承認しました。

    ドイツはこの時「これが最後の領土要求だ」と表明しております。

    しかしその直後、ドイツはチェコスロバキアを解体し、占領してしまいます。

    更にドイツはポーランドの一部の割譲を要求します。ポーランドはイギリス、フランスの支援を期待してこれを拒否します。

    ドイツはこのままポーランドを攻めるとソ連を警戒させる恐れがあるため、その阻止に独ソ不可侵条約を締結。

    この独ソ不可侵条約によりポーランドはドイツとソ連に挟まれる形となりました。

    そこでドイツがポーランドへ侵攻開始。

    これをきっかけに西欧の第二次世界大戦がはじまりました。

    ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーへと次々に侵攻。

    イタリアもドイツ側について参戦。

    この頃のドイツの戦い方は電撃戦と呼ばれ、まず航空機により首都迄の道を爆撃、その後トラックで兵士を首都迄運び一気に首都を占領するというものでした。首都さえ押さえれば、その国は機能しなくなり、簡単に占領できます。

    ドイツが始めに北欧を攻撃した理由は、そこにドイツ軍を配備してイギリスを動けなくする為です。その目的はフランスを占領するためです。

    イギリスはドイツに対し宥和的な政策を取っていたチェンバレン首相に替わり、強気なチャーチルが首相になりました。

    フランスはドイツに侵攻され、ドイツの傀儡ヴィシー政権が成立。

    アメリカは欧州がファシズムに染まるのを恐れ、イギリスなどに武器や軍事物質の貸与を始めました。

    これによりイギリスは何とかドイツの侵攻を食い止められるようになりました。


    ソ連およびドイツの不可侵条約

    ドイツと独ソ不可侵条約を結んだソ連はドイツと同じくポーランドへ東から侵攻し、ドイツとポーランドを分割します。

    更にソ連はバルト三国、続いてフィンランドへ侵攻し、制圧します。国際連盟はいかってソ連を除名します。

    ところがここでドイツがバルカン半島へ侵攻、ソ連もバルカン半島を狙っていたために両者が衝突。独ソ戦争が勃発。

    ドイツ及びイタリアがアメリカに宣戦布告しました。


    日本の情勢

    今迄、西欧について述べてきましたが、ここからは日本です。

    日本も西欧のイギリス、フランス、ドイツに劣らず第二次世界大戦前にはアジアを中心に侵攻、占領を繰り返していました。また、国内においては思考統制、軍部の増長があったことはご存知の通りです。

    まず今回はこの頃の日本の戦争に係る事項を時系列順に並べて見ます。少し遡って第一次世界大戦(1914~)前の1910年からです。

    1910年(明治43)日韓併合

    1911年(明治44)特別警察設置による思想弾圧

    1914年(大正3) 第一次世界大戦参戦(~1918)

    1915年(大正4) 対中国21カ条要求

    1920年(大正9) 国際連盟加入(常任理事国)

    1922年(大正11)海軍主力艦制限条約。国内不況が始まる。

    1928年(昭和3) 張作霖爆殺事件(満州)

    1929年(昭和4) 世界大恐慌

    1930年(昭和5) ロンドン軍縮会議(補助艦)

    1931年(昭和6) 満州事変発生(柳条湖事件)

    1932年(昭和7) 5.15事件 軍部による犬養毅首相暗殺。上海事変発生。満州国建国宣言。

    1933年(昭和8) 国際連盟脱退

    1936年(昭和11)2.26事件 軍部による高橋是清大蔵大臣他暗殺。日本の政党政治の終焉。これ以降軍部主導の政治となる。

    1937年(昭和12)日中戦争(盧溝橋事件)

    1938年(昭和13)国家総動員法成立(国家全ての人的・物的資源を政府が統制運用)

    1939年(昭和14)アメリカが日本の中国侵略への抗議として日米通商航海条約を破棄

    1940年(昭和15)日独伊三国同盟

    1941年(昭和16)太平洋戦争(第二次世界大戦)突入


    張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件

    では、日中戦争のきっかけの一つとなった張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件から。

    この事件は1928年(昭和3)6月に中国の瀋陽(当時は奉天)で発生しました。

    張作霖は満州馬賊出身の満州の覇者で様々な経歴がありました。

    日本政府と軍部は満州での既得権益を守る為に満州を支配しようとしていました。政府側は平和的に、軍部は力で。

    張作霖は日本に非協力的でした。

    日中の軍部(関東軍)は中国側の蔣介石が率いる国民革命軍の仕業と見せ掛け、張作霖が乗った列車を爆破し、張作霖を殺してしまいました。

    実は日本軍(関東軍)の仕業であることは日本国民には当時秘密にされ、国民が真相を知ったのは第二次世界大戦後でした。

    日本国民の目は日本軍部により欺かれていたのです。

    この事件の結果、張作霖の息子の張学良はかえって中国の蔣介石と手を結ぶこととなり、満州情勢は逆に日本に不利な結果となりました。

    この辺りから日本の軍部の著しい勝手な独走が始まります。地獄への第一歩です。

    この時満州へ駐在していた日本軍は関東軍です、表向きは南満州鉄道を警備する役割りでした。なお、関東軍の名称の「関東」とは満州全体を指す言葉で、日本の関東地方とは無関係です。


    満州事変

    今回も日本の関東軍による悪しき独断専行の話しです。

    これにより日本が世界の中で大きく道を踏み外すことになります。

    1931年9月18日、満州の奉天(現在の中国東北部の瀋陽)郊外の柳条湖付近で南満州鉄道が爆破されました(柳条湖事件)。

    関東軍は中国国民党(蔣介石)の仕業と断定し、防衛の為に戦闘をしかけました。

    中国国民党はこれに殆ど抵抗せず、関東軍は瞬く間に満州全域を占領しました。

    中国国民党が抵抗しなかった理由は当時中国共産党(毛沢東)との争い明け暮れていた為です。

    実は、柳条湖事件の鉄道爆破は中国国民党の仕業ではなく、関東軍が中国国民党を攻める口実作りに関東軍が仕組み鉄道を爆破したものでした。このことは第二次世界大戦後に始めて日本国民に知らされました。

    全く酷い話しです。


    上海事変、5.15事件及び国際連盟脱退

    満州事変が発生したのは1931年(昭和6)9月でした、翌年の1932年(昭和7)1月18日に上海事変が発生します。

    日本人僧侶が上海で中国人に襲撃され殺されました。これに日本の海軍陸戦隊が出動し中国軍と衝突したのです。3月には日本軍は中国軍を上海から追い出しました。

    実はこれには裏があります。

    満州を日本が占領するにあたり、欧米諸国からの反対を避けるために、欧米諸国の目を満州から遠く離れた上海に転じさせる目的で関東軍が仕組んだ罠でした。

    関東軍が中国人を大金で買収し、日本人僧侶を中国人に襲わせ殺害させたのでした。

    一説によると、この話しの一部に日本側スパイの川島芳子が絡んでいたと言われます、男装の麗人と言われる清朝の皇族の娘です、一時日本で暮らしていました。

    張作霖爆殺事件、柳条湖事件、上海事変と全て日本の関東軍が仕組んだ事件でした。全く信じられません。

    中国は日本の満州占領に抗議して、国際連盟に提訴します。

    国際連盟は日本に満州から手を引くように勧告します。

    一方日本政府は関東軍の満州占領に反対しておりました。


    5.15犬養毅首相暗殺事件

    この年の5月15日に日本の軍部の一部が首相を暗殺するという暴挙に出ます。5.15犬養毅首相暗殺事件です。

    これが日本の政党政治の終焉の始まりです。

    犬養毅は自宅に乗り込んできた軍人達に暗殺される前に「話せば分かる」と言ったそうです。

    軍部は満州国建国宣言をします。

    翌年の1933年(昭和8)日本は国際連盟から強く責められて、国際連盟を脱退してしまいます。


    2.26事件

    5.15事件の4年後の1936年(昭和11)2月26日に発生しました。

    当時陸軍は二つの派閥がありました。

    片方は「統制派」、もう片方は「皇道派」。

    統制派は軍部が政府や経済に深く介入し、政府を軍部よりに変えていく。

    皇道派は天皇親政を目指し暴力も辞さない。

    両派閥は激しく鎬を削っていました。

    当時の日本は昭和恐慌の真っ只中で特に農村漁村では赤貧の状態でした、街には失業者が溢れ、企業の倒産も数多くありました。

    また政界上層部や軍部上層部は汚職にまみれており私利私欲が横行していました。

    この状況の中で皇道派の若手将校を中心とした1500人の軍人が決起し、この状況を改善するべく「昭和維新」として政府の重要人物を襲撃し暗殺した事件です。

    この事件はじきに制圧されましたが、優秀な政治家を多く失い、軍部の力が益々強くなり、明治維新以来築いてきた政党政治が終わりをつげることになりました。

    これ以降の日本は軍部主導によるファシズム(全体主義)の世界となります。


    日中戦争

    1937年(昭和12)7月7日から始まり、1941年(昭和16)12月には太平洋戦争に拡大、1945年(昭和20)8月15日に日中軍の全面的な敗北で修了。

    当時日本陸軍は中国との武力衝突に備え、支那駐屯兵を増強していた。中国側も抗日に備え軍隊を増強しており、一発触発の状況にあった。

    始まりは中国の北京近く盧溝橋で発生した小さな事件です。日本軍の夜間演習中に近くにいた中国軍が実弾を発射し、日本兵が一時行方不明になったことがきっかけで、日本軍と中国軍が衝突しました。尚、この日本兵はトイレに行っていただけでした。

    その後戦闘は拡大し、8月には上海(第二次上海事変)、11月には南京へと広がり、日本軍は南京虐殺事件を起こした。戦いは更に中国各地に広がる。

    日本陸軍は中国との戦いを有利に進めるには北方のソ連が障害となると考え、ドイツとの軍事同盟が必要とし、日独伊の三国同盟を陸軍は主張。

    一方、日本政府及び海軍は三国同盟は米英との対立に繋がると考え強行に反対。

    1939年(昭和14)5月満州国とモンゴル人民共和国の国境で関東軍とソ連軍の衝突が発生(ノモンハン事件)。これは関東軍が日本政府や軍中央参謀本部の戦闘行為禁止命令を破って侵攻したもの。これは8月には停戦になった。

    これはドイツのポーランド侵攻により、ソ連が軍隊を西側に移動させる為に停戦となったもの。関東軍は実質は負けの状態。 以降日中戦争は泥沼化、長期化し、第二次世界大戦へ延焼。

  • 第1次世界大戦(1914-1918 大正3-7)

    いよいよ第1次世界大戦です。日本は勝利しましたが、じつは端っこを少し齧った程度なので、戦争の中心地であった西欧の話しをいたしましょう。
    この戦争では欧州を中心に1,600万人もの尊い命が奪われました。

    ドイツの情勢

    第一次世界大戦は1914年から始まりますが、その少し前の1871年まではドイツと言う国は有りませんでした。プロイセンと言う国を中心として、小さな国がバラバラに存在していました。西隣はフランス。フランスはカトリック、プロイセン周辺は一部を除きプロテスタント。両者は極めて仲が悪い、即ち宗教上の対立です。

    プロイセンの首相にビスマルクが任ぜられると、彼はプロイセン周辺国家を統合し、1871年にドイツを設立しました。これがドイツの始まり、結構ドイツの歴史は浅いのです。

    この統合の途中で、アルザスロレーヌ地方が問題になりました。昔の教科書に載っていた最後の授業の舞台です。あの物語自体は歴史を正確には反映していません。

    元々、神聖ローマ帝国時代からフランス領では有りませんでした。ある時からフランス領になったものです。故に住民はドイツ語に近い言語を話していました。

    そのアルザスロレーヌ地方は鉄や石炭などの地下鉱物資源が豊富な所です。かつその地方はカトリックなのです。

    ドイツ統一に際し、ビスマルクは本意では無かったようですが、軍部に押し切られてドイツに組み込みました。

    これがフランス国民の怒りをかっていました。

    ビスマルクはドイツの初代皇帝ヴィルヘルム1世の元で宰相として働いていましたが、やがてヴィルヘルム1世が亡くなり、引き継いだヴィルヘルム2世とは政策上の相違から辞任してしまいます。

    ビスマルクは周辺の国々とは安定をもたらす政策でしたが、ヴィルヘルム2世は異なります。東アジアへの進出を狙い、ベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バクダッドを鉄道で結ぶ計画を立てます。これはロシアの南下政策とはバルカン半島でもろにぶつかります。

    また、バクダッド経由でペルシャ湾を経てインド洋に出ると、当時インドを植民地としていたイギリスの艦隊ともろにぶつかることとなります。

    このドイツの政策がロシア及びイギリスとの関係をこじらせ、第一次世界大戦の火種になります。尚、イギリスは最初は中立の立場をとります。

    フランスの情勢

    フランス革命(1789年)以降、フランスの政治は全く定まらない状況でした。

    1789年 フランス革命

    1792年 第一共和制

    1804年 ナポレオンによる第一帝政

    1814年 第一次復古王政

    1815年 第二復古王政

    1848年 第二共和制

    1852年 ナポレオン3世による第二帝政

    1875年第 三共和制

    といった具合です。全く目まぐるしいですね。

    ドイツへの怨念が激しく、ドイツを挟み打ちにするつもりで、ロシア、イギリスと組んで三国協商をむすびます。

    イギリスの情勢

    次はイギリスです。

    イギリスは日本と日英同盟を締結していました。これは一方の国が複数国と交戦状態になれば加勢する、しかし1国と交戦状態ならば、中立を守るというものでした。これのお陰で日本は安心して日露戦争を行えました。

    そのイギリスは植民地インドとの航路の確保が必須で、航路は二つありました。一つは地中海→スエズ運河→紅海→インド、もう一つはアフリカの最南端ケープタウン→インド。そのため、フランス人レセップスによるスエズ運河を買収、エジプト、紅海沿岸に接するスーダンへの侵攻、更に南アフリカへの侵攻。これらはフランス、ドイツとアフリカ大陸内で衝突をくり返しながら実施され成功しました。

    バルカン半島の情勢

    次はヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島です。

    当時はドイツが東に支配を広げるためにベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バクダッドを結ぶ鉄道を計画していました。これにはバルカン半島を通過する必要があり、仲間のオーストリアを使ってバルカン半島を専有する意図がありました。

    一方ロシアは小麦輸出および軍港のための不凍港が必要であり、バルカン半島を狙っていました、ロシア人はスラブ民族です。バルカン半島のスラブ民族を後押し、専有する意図がありました。

    その昔バルカン半島は永らくオスマン帝国が領有していましたが、オスマン帝国が衰退すると南半分にスラブ人国家が多数独立しました。ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、アルバニア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャなどです。

    一方、北半分はゲルマン人であるオーストリアが領有。ゲルマン人とスラブ民族の対立が起こります。

    まず、オーストリアはスラブ人国家であるボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻し領有しました。

    その後、オーストリア皇太子夫妻が領有したボスニア・ヘルツェゴビナの州都であるサライェヴォを訪問しましたが、この際にセルビア人青年に暗殺されてしまいました、有名なサライェヴォ事件です。

    これが一発触発のバルカン半島に火を点け、第一次世界大戦を引き起こしました。

    サライェヴォ事件から第一次世界大戦へ至る経緯

    1914年6月28日 サライェヴォ事件発生。

    7月28日 オーストリアがセルビアへ宣戦布告

    7月30日 ロシアが総動員令発令

    8月1日 ドイツがロシアに宣戦布告

    ロシアは不利が予想された為、三国協商の一員であるフランスに協力依頼、ドイツを東西から挟み込む作戦。

    8月1日 フランスは総動員令発令。

    8月3日 ドイツがフランスに宣戦布告。

    ドイツはフランスのパリに攻め込む際に、ショートカットの為にベルギーへ侵攻後フランスへ軍を進める。ベルギーは当時中立国を宣戦していた。

    イギリスも当初中立であったが、ドイツのベルギー侵攻を見て参戦を決意。

    8月4日 イギリスがドイツに宣戦布告。

    日本は当時イギリスと日英同盟を結んでいたため、参戦。

    8月23日 日本がドイツに宣戦布告。

    11月初頭 イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告

    1915年5月23日 イタリアは当初ドイツ、オーストリアと同じ三国同盟の一員であったが、裏切ってフランス、ロシア、イギリス側の三国協商に寝返った。そして、オーストリアに宣戦布告した。

    アメリカは当初中立であったが、ドイツの潜水艦により米国人が沢山乗船していた客船ルシタニア号が撃沈され、国民感情が対ドイツとなった。

    1917年4月6日 アメリカがドイツに宣戦布告。

    日本のへの影響

    日本は参戦によりアジア圏及び南太平洋でのドイツの植民地を奪い取りました。

    中国の青島と山東半島および、南太平洋の赤道以北の島々です。

    この赤道以北の島々はマリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島、ビキニ島などかなり広範囲な領域に渡ります。

    日本の参戦については、日英同盟に基づいていますが、必須事項ではなかったため、日本国内では参戦について政界で賛否両論が戦わされました。

    又、英国やアメリカは日本が中国に深く入り込むのではないかと大いに懸念されていました。中国は彼等も強く狙っていた為です。

    また、人種差別もありアメリカは日本をかなり警戒するとともに嫌っていました。

    イギリスの秘密条約

    連合国(協商国)側リーダであるイギリスの秘密条約。

    当初敵側の同盟国の一員であったイタリアの抱き込み。

    ロンドン秘密条約。

    イタリアは一部地域を同じく同盟国側であったオーストリアに占領されていた。イギリスはイタリアに連合国側に寝返れば、連合国が勝利した暁には、オーストリアに占領されている地域をイタリアのものにしてやると約束して、連合国側に寝替えさせた。まるで日本の関ヶ原の戦いの小早川ですね。

    次は同じくイギリスの秘密条約、所謂有名な三枚舌外交。

    なぜ三枚舌と言うか、それは同じ地域に関し、三者と別々の約束をしたからです。

    全く酷い話しです。これの後遺症は現在も尾を引いています。

    その対象地域は同盟国のオスマン帝国の領土です、特にパレスチナを含みます。

    1枚目 フセイン・マクマホン協定。

    イギリスはアラブ人にオスマン帝国の領地(パレスチナを含む)にアラブ人国家の独立を約束。

    2枚目 サイクス・ピコ協定。

    イギリスは連合国のフランス、ロシアに対し、オスマン帝国の領地をイタリア、フランス、ロシアの三国で分割することを約束。

    3枚目 バルフォア宣言。

    イギリスはユダヤ人にオスマン帝国の領地であるパレスチナにユダヤ人国家建設を支援するというもの。これは戦費をユダヤ人から借り入れる為です。

    戦況

    では、第一次世界大戦の戦況をごく大雑把に。

    ドイツ・オーストリアの西はフランスに(ドイツから見て西部戦線)、東はロシアに挟まれ(ドイツから見て東部戦線)、更に北は遅れて参戦したイギリスに囲まれます。

    西部戦線ではフランスが辛うじて守りきりました。

    東部戦線では最初はドイツ・オーストリアが有利でしたが、ロシアを東へ深追いし過ぎて冬将軍にやられます。

    更にそこにアメリカが参戦。

    ロシアはロシア革命勃発で戦線離脱。

    それまで全体としては膠着状態でありましたが、アメリカ参戦で一気に協商国(連合国)(イギリス帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国、大日本帝国、イタリア王国、ロシア帝国、他)側の勝利となりました。

    負けたのは同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)。

    尚、ドイツは1918年11月に革命が発生し、問題が多かったヴィルヘルム2世は亡命、ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ共和国となりました。

    ロシア帝国はご存知のとおり1917年の2月及び10月革命により崩壊し、ソビエト社会主義共和国連邦につながりました。

  • 日露戦争(1904-1905 明治37-38)

    日清戦争の10年後に発生した日露戦争(1904-1905 明治37-38)。
    当時日本はロシア南下政策にかなり脅威を感じていました。

    すなわち、漸く勝ち得た朝鮮半島が取られる可能性、三国干渉により取られた遼東半島を露清密約により租借し、そこからの日本攻撃の可能性、義和団の乱の収拾と称し満州へロシア出兵等です。

    しいては日本がロシアの植民地となる可能性ありと。

    国内では対露主戦派の小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋と、戦争回避派の伊藤博文、井上馨が論争。政治家によりしっかり議論されていました。

    日露双方の海軍力の状況。

    ロシア側の当時の艦隊基地はウラジオストック、遼東半島先端の旅順、欧州黒海のオデッサにいる黒海艦隊、ラトビアのリエパヤ(ドイツ語リバウ)のバルチック艦隊がありました。

    ウラジオストックの艦隊と旅順の艦隊を合算した海軍力と日本の海軍力はほぼ互角。

    オデッサの艦隊は英国との協定により黒海からは出られず。

    そこでリエパヤを基地とするバルチック艦隊を7ヶ月かけて日本海へ回航する計画をロシアは立てました。バルチック艦隊を合算すれば、日本海軍力の2倍となります。

    日本はバルチック艦隊到着前にウラジオストック艦隊と旅順艦隊を破る必要がありました。

    旅順は背後に203高地と言われる山があり、自然の優れた要害でした。

    陸軍が背後から203高地を襲撃、極めて多大な犠牲に苦戦しながらも制圧。

    このあと日本の女性のヘアースタイルに、額に庇、てっぺんを高く結い上げた203高地というのが爆発的に流行りました。

    日本海軍はウラジオストックと旅順の艦隊の撃破に成功しました。

    陸軍は満州の奉天(瀋陽)へ出兵、ロシア軍と対峙。この対峙は日露戦争終戦まで続きました。

    ロシアはバルチック艦隊を欧州から7か月かけて日本海へ回航してきました。

    東郷平八郎率いる連合艦隊は対馬沖でバルチック艦隊の到着を待ち受けました。

    明治38年5月27にバルチック艦隊が対馬沖に現れ、東郷の優れた作戦により連合艦隊が完璧に勝利しました。

    この勝利は有色人種が初めて白人に勝利したことで、欧米列強先進国に驚嘆されました。

    経済面です。日露戦争の戦費総額は約18億円(見積時は4.5億円)、現在から見ると安く見えるが、国の1年間の歳入が2.6億円の頃の話し。

    不足分を外債にて補おうとするも、「日本がロシアに勝つ訳ない」と各国最初は非協力的でした。しかし、1904年5月に鴨緑江会戦で日本陸軍がロシアに勝利すると、たちまち日本の外債に諸外国から人気が出て、外債発行は大成功となり、ようやく戦費の調達ができました。
    しかし日露戦争に勝利しましたが、賠償金が取れなかったため、これの返済は昭和61年迄かかりました。

    日清戦争に比べて約10倍の戦費がかかりました。

    日露戦争の終戦処理のポーツマス条約です。

    日本の全権大使は小村寿太郎、ロシアはセルゲイ・ウィッテ。両者とも物凄い切れ者、実力者でした。

    当時の状況として、日本側は日本海会戦には勝利したものの、これ以上の戦争継続は財政的に全く無理な状況。ロシア側は財政的には戦争継続は可能であったが、第一次ロシア革命の前哨戦がおこり始めており、戦争は引き延ばせない状況。

    日本はアメリカのルーズベルト大統領に終戦処理の仲介を依頼。アメリカ東海岸のポーツマスにて交渉開始。小村とウィッテ間で物凄くタフなネゴシエーションを展開。大まかには日本は樺太の南半分と満州の鉄道の一部を得ることで決着。

    日本は財政的に戦争継続不可なことを極秘にしており国民に知らせて無かった。賠償金が取れない理由をマスコミや国民は知らず、各新聞が賠償金を取れないことを騒ぎたて、国内で暴動が発生しました。

    マスコミに国民が踊らされた顕著な例でした。

    ではここで、日清戦争と日露戦争を通した国民の一般な意識の変化について。

    まず、日清戦争後。明治維新以来、西洋文明を取り入れ、富国強兵策を図り、アジアの最強国中国に勝利、日本はアジアの覇者となりました。

    国民は西洋文明は凄い、苦労して取り入れた価値があったと評価し、東洋文明を否定する傾向に至りました。

    次は日露戦争。西洋文明を取り入れた日本が西洋の大国ロシアに勝った。

    すると、日本は西洋文明を取り入れただけではなく、東洋の中の日本には伝統的な、神がかりな強さがある、と考えるに至りました。

    このへんから軍事面での過度な自信が付いたと見込まれます。 しかし、富国についてはロシアや欧米諸国と比較してまだまだな状況でした。

  • 日清戦争~日英同盟

    日清戦争(1894-1895 明治27-28)

    これは中国(当時は清国)との朝鮮半島奪い合いです。朝鮮は当時中国を宗主国とし植民地化されていました。

    日本は以下の二つの理由で朝鮮半島を必要としていました。

    一つ目は朝鮮半島に於ける権益拡大、即ち植民地化。

    二つ目は当時ロシアが東岸で南下政策を取っており、これから日本国土を守る為の緩衝地帯として。

    前提として、日本と中国間に締結された天津条約があり、これは中国又は日本の一方が朝鮮へ軍隊を派遣する場合は、相手方にも事前通告し軍隊の派遣を認めるというものです。

    朝鮮内部の反乱発生により、これを押さえるために中国と日本が出兵。
    反乱鎮圧後、中国と日本でその後の朝鮮の取り扱いで意見が異なり日清戦争に至りました。

    結果は日本の圧勝。日本は朝鮮の独立(実質植民地化)、台湾及び遼東半島を入手。日本の国家予算の3年分相当の賠償金を獲得しました。

    しかし、遼東半島は後に三国干渉(ロシア、フランス、ドイツ)の圧力により返還させられてしまいました。

    日清戦争の勝利により、日本は軍事力に自信を持ちました。同時に西欧諸国(含むロシア)には中国の軍事力が脆弱なことを知らしめた結果となりました。

    日本には三国干渉により遼東半島を取られた悔しさが残り、ますます軍事力強化へ進む。

    三国干渉で遼東半島が取られた顛末は以下の通りです。

    首謀者はロシアがフランスとドイツに声をかけました。

    ロシアは当時南下政策を取っていました。理由は遼東半島にある大連、旅順などを租借し不凍港を確保するためです。しかも日本から遼東半島を取り返してやると中国に恩を売ることが出来、満州での鉄道敷設権などを得ることが出来たのです。フランスとドイツは中国から様々な権益を得る為に悪乗りしました。英国は日本が早くから手を結んでいたので、加わりませんでした。


    閔妃(みんび)暗殺事件(1895年)

    朝鮮王朝は二つの派閥が闘っていました。

    一つは爺様(大院君)、もう一つは爺様の息子(高宗)の嫁さん(これが閔妃)。

    爺様は日本寄り。閔妃は最初は中国寄り。しかし、日清戦争で中国が負けてからは急遽ロシア寄りにかわりました。

    この閔妃のパワーが凄く、爺様派閥や日本からはかなり邪魔な存在になりました。

    賊が王宮に押し入り閔妃を殺害してしまいました。

    下手人は今も諸説あり、日本人、爺様派閥の人、またはその合同などです。日本は何らかの形で関わっていた模様です。更には、閔妃は43歳の別嬪であったらしい。確実な写真は無い模様で、閔妃殺害後、その亭主(国王)は在朝鮮ロシア大使館で執務にあたっていたそうです。
    日本にとってロシアはかなり危険な存在でありました。

    日英同盟

    次は日英同盟(1902年 明治35年)です。
    当時日本国内では日露協商論と日英同盟論に二分されていました。日露協商論は伊藤博文と井上馨が主張、日英同盟は山縣有朋と桂太郎が主張。

    日露協商論は日本は朝鮮半島を取り、ロシアに満州を譲るという協調路線。

    日英同盟はロシアは信用出来ない、満州にとどまらず朝鮮更には日本へ侵攻して来る可能性が高いとし、牽制のために英国と同盟を結ぶ、つまりロシアとは対立路線。

    桂太郎内閣は日英同盟を推し進め、日露開戦を想定し軍備拡張を進めました。

    日英同盟の主たる内容。日英どちらかが第三国と交戦した場合は、他方は中立を守る、というものでした。

    これで日本がロシアと戦っても英国は中立を守ることになる訳です。兎に角その頃は英国が群を抜いて強いですから。

    日英同盟について、内村鑑三は日本が英国と組んで更なる侵略行為に走ると危惧。

    夏目漱石は玉の輿に乗った女が嬉しそうに騒ぎ回る、と皮肉りました。

    ここいらで、日清戦争当時の政治、経済、国民の気持について調べようと思います。

    先ず政治。この頃はまだ政治が軍事をリード出来ていたようです。

    日清戦争直前に史上初の大本営が設置されました。

    枢密院議長、首相、外務大臣も列席。軍人のみではありませんでした。

    更に当時の指導層は元士族であり、彼等は政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育ったため、政治指導者は軍事に理解があり、軍事指導者には政治に理解が有りました。

    後の世のように軍事専門教育のみを受けた軍事エリートのみで構成された集団ではありませんでした。

    全体として政治が主導し、軍事がついてゆく構造でした。

    では経済。

    経済の元となる国民の質。よく言われるように、江戸時代末期の国民の教育レベルの高さ。身分別人員構成比では武士が全体の6%、工商が6%、農民が86%と言われています。

    しかし全国民の修学率は男子43%、女子10%といわれる。

    これは全国に1万以上有ったと言われる寺子屋のおかげ。読み書き算術が主として教えられていました。また士族相手には全国に200を超す藩校がありました。

    明治政府になってからも教育にかなり力を入れており、明治4年に文部省設立。明治8年には2万4千校の小学校を設立しています。なかなか当時の人は良く考えていたようです。

    西欧の帝国主義に飲み込まれて多くのアジア諸国のように植民地にならないための強兵策。この強兵策のバックボーンとなる富国策。

    産業を起こし発達させる為に、優秀な外国技術者を超高給で沢山雇い入れて、指導に当たらせました。総理大臣級の給与よりも高給で雇ったそうです。

    ご存知の通り最初は繊維産業、次に日清戦争の賠償金で重工業(まず八幡製鉄所)。

    日清戦争になっても徴兵数は少なく、しかも派兵期間も短かったため、国内労働力に大きな影響は無かったようです。寧ろ、当時国内労働力は余剰な状態でありました。

    日清戦争の賠償金により日本国内は潤いました。

    しかも日英同盟により、国際的な安心感が政府および国民に蔓延。

    しかし、勿論現実には女工哀史、口減らしの為の赤線商売などは多く存在していました。

    しかし、西南戦争により政府の財政状況は一挙に苦しくなり、戦費調達の為に不換紙幣などを乱発。所謂「悪貨は良貨を駆逐する」状態になり、物凄いインフレとなりました。これを解決するために、松方大蔵大臣は不換紙幣の回収焼却、増税、金融引き締め策を実施。その結果当然激しいデフレとなりました。

    このデフレで大きな影響を受けたのは農民。江戸時代は税金は米など農作物で納めていたが、明治政府になってからは紙幣で納税。ところが、デフレで農作物は超安値でしか売れず、納税がままならず、破綻。今迄自作農家であった農家が、豪農に自分の農地を売り渡して、自分は豪農の元で土地を持たない小作農家になり果てるケースが相次ぎました。士族と農民にとってはかなり厳しい時代となりました。

    別の角度から見れば、農地、農民の集約化が著しく進みました。

    この時代の国民の気持の代表としては一般人では全くありませんが、啓蒙思想家の福沢諭吉さんですね。私は小学生の頃北九州市におり、修学旅行で中津の福沢諭吉の生家に行った覚えがあります。ご存知のとおり西洋思想(特に英国)を持ち込みました。勝海舟とは随分仲が悪かったようです。

    番外 西南戦争

    西南戦争1877年(明治10年)について。

    事の発端は西郷隆盛と盟友大久保利通の政治に関する意見の決別です。

    二人とも薩摩藩出身。歳は西郷が2歳年上。

    大久保が岩倉使節団として1871年(明治4年)-1873年(明治6年)に米国欧州を視察している間に留守を預かっていたのは西郷。その間に大久保から西郷に対し留守中は大きな変革を行わないことを西郷と約束。

    しかし、その間西郷は大きな変革を幾つも遂行、大久保は西郷に不信感をもつ。大久保帰国後は韓国に対する扱いでも意見対立(西郷の征韓論)。大久保は広く欧米を視察した結果、先ず国内の富国が最優先と判断。

    この対立により西郷は役職辞す、この時西郷を慕う政治家、軍人、官僚600人が同時に辞職。

    西郷は鹿児島にこもる。

    もう一つの重要な背景が、従来の士族階級の状況。明治4年に中央集権化及び財政改革を目的に行われた廃藩置県。これにより士族の特権は無くなり、不満を抱える元士族が西郷の元に集まる。江戸幕府の頃は国の歳入の4割が人口5%しかいない士族に配布されていた。

    西郷は集まった不満士族の反乱を防ぐ為に鹿児島で私学を設立して教育にあたる。しかし、これが反乱の準備と大久保に見做される。

    大久保が西郷の暗殺を試みたことが発覚し、西南戦争への引き金となった。

  • 江華島事件と台湾出兵

    日清戦争の前夜の話しです。

    明治政府初の海外出兵である1874年(明治7)の台湾出兵と1875年(明治8)の江華島事件(朝鮮西岸)です。

    台湾出兵は現在の沖縄県の宮古島島民が台湾に約50名漂着した際に原住民に殆ど殺害されたことに対する報復です。


    江華島事件は江華島付近で日本の軍艦が砲撃されたことへの報復です。
    が夫々表向きの理由です。

    台湾出兵については、当時琉球は中国と日本の両方に帰属する存在でありましたが、日本はこの機に乗じて日本のみに帰属させることが真の目的であり、成功しました。

    一方の江華島事件は江戸時代までは朝鮮と日本間で国交が有りまあしたが、明治維新後、日本が明治政府になってからは朝鮮との国交を拒否されていました。

    これを復活させることが真の目的で、これも成功しました。

    これらは両方とも日本の対外膨張路線でした。 この二つの海外出兵の成功で対アジアについて日本は自信を付けました。即ち明治維新以来の強兵策が功を奏した訳です。

  • 文化露寇(1806~1807)

    1806年(文化3年)日清戦争の前々夜、ペリー来航の50年程前の話しです。

    江戸時代の長い平和が続き、文化、商業が花開いていた頃、樺太、択捉にある幕府の拠点が突如通商条約を求めるロシア軍艦に襲撃略奪され、幕府は殆ど抵抗出来ませんでした。

    ロシアをはじめ西洋諸国はその頃づっと対外戦争を続け、武器は近代化され、一方の幕府の武器は戦国時代のまま、200年間進歩ありませんでした。更に西洋に関する研究も殆どされておらず、正に絵に描いたような井の中の蛙でした。しかもこれでも江戸幕府という軍事国家でした。

    ロシアが通商条約を要求した目的は、当時ロシアでは毛皮採取のためのラッコ漁が盛んでアリューシャン列島、アラスカで盛んに漁を行っていました。

    しかしこの辺りでは食料入手が困難なため、日本から食料調達の目的で通商条約締結を望んでいました。

    その約50年後に米国と平和裏に日米和親条約締結、明治維新を迎え、今迄とは打って変わって軍事強化策となったのはご存知の通りです。極端から極端への素早い方針転換ですね。第二次世界大戦前後の変化と丁度真逆の方針転換ですね。

    もしかしたら、日本国民は極端から極端への変化が癖なのかもですね。