カテゴリー: 失われた30年について

バブル崩壊からの失われた30年についての考察を行います。

  • 失われた30年ー第4回

    今回はバブルの崩壊について調べます。

    1.バブル崩壊

    (1)バブル崩壊の引き金となった総量規制と金利引き上げ

    前回(失われた30年―3)のバブル発生の項で記載した1990年(平成2年)に政府から発動された「総量規制」の影響により、土地価格の値下がりがはじまりました。

    総量規制とは行き過ぎた不動産価格を是正する目的で政府が銀行に対し、土地購入に対する貸付の制限を行ったものです。
    土地購入に関する貸出の伸び率を当該銀行全体の貸し出し総額の伸び率以内に規制をするものでした。即ち、土地購入に優先的に資金の貸し付けことを禁止するということです。

    これによりそれまで盛んであった企業や投資家の土地購入に対する資金が枯渇し、土地に対する需要の低下を招き土地価格の下落が始まりました。

    しかし、この総量規制は銀行が対象であって、ノンバンクである住専は対象外でした、これが抜け道となり、土地への投資はしばらく止まることはありませんでした。

    そこで政府は企業や投資家が土地購入資金を借りづらくする為に、金利引き上げ(3.75%→6%)を行いました。これにより土地購入資金が急激に減少し土地購入需要が低下し、土地価格が凄まじく下がりはじめました。

    6大都市商業地での土地価格はバブルピーク時に比べると約90%下落しました。



    (2)バブルの結果として発生した莫大な不良債権

    不良債権とは返す見込みのない借金のことです。
    それまで多くの企業や投資家は土地購入や株式購入の目的で銀行や住専から多額の借金を抱えていました。
    しかし土地や株式の急激な値下がりでその借金の返済ができなくなりました。更に借金の担保とした土地の値下がりにより、銀行が担保を押さえても債権の回収ができない状態が国中で多発したのです。これが不良債権です。

    即ち融資した金額に対し、担保価値が全くカバーできない状態です。融資したものはお金、担保は急激に値下がりを始めた既得土地ですので、「不良債権」はどんどん膨れ上がるのが道理です。

    この土地値下がりの影響でバブル期に積み上げられた「不良債権候補」がたちまち本当の「不良債権」になりました、総額は2007年頃までに100兆円にのぼると言われています、これは日本の年間国家予算に匹敵する額です。



    (3)銀行による苦しまぎれの貸し剥がし、と貸し渋りによる倒産企業の急増

    不良債権の凄まじい蔓延はお金を借りた企業や投資家ばかりではなく、貸した側の銀行をも大きく苦しめることになります。何しろ貸したお金を回収できないのですから。

    不良債権の増大に伴い、世の中は債権に対し、返済してもらえるのどうかと疑心暗鬼になります。
    そこで銀行は自身の保全の為に半ば強制的に優良な債権者に対しても債権の回収に走ります、所謂貸し剥がしの発生です。
    これは銀行が既に企業へ融資した資金に関し、期限前に融資額の返済を求めるものです。これの履行には一定の条件がありますが、これを行使された多くの企業はたちまち倒産してしまいます。


    更には、債権を増やさないために貸し渋りも行います、これは長年取引がある企業に対し、資金提供を突然やめてしまうケースです、これを実行された企業は運転資金ショートなどにより優良企業でも倒産してしまうことが多いのです。


    これが1991年に発生したバブル崩壊です、これ以降日本経済はなかなか立ち直れず長くて暗いトンネルに入ります。

  • 失われた30年―第3回

    失われた30年の根本的な原因を探ってみます。

    その引き金はどうも今から約40年前の1980年代のアメリカ経済の失敗にありそうです。

    そのアメリカ経済失敗を挽回するために開催されたプラザ合意、そのプラザ合意を引き金に日本政府の失政によるバブルの発生、そしてバブルの崩壊、崩壊後の日本政府の更なるさまざまな失政。

    日本政府のさまざまな失政と日本国内の諸問題がミックスして30年もの間不況から立ち上がれない現在の日本の姿があるように思えます。

    今回は「1980年代のアメリカ経済の失敗」、「プラザ合意」、「バブル発生」について調べてみようと思います。

    1.1980年代のアメリカ経済の失敗

    • 背景としてオイルショックによる高インフレの後遺症

      1973年の第4次中東戦争の影響で発生した第一次オイルショック、および1979年のイラン革命の影響による第二次オイルショックと、二回のオイルショックによる原油の供給量の縮小および原油価格の高騰により、日本やアメリカを含む西側諸国は高度のインフレに見舞われていました。

    • 当時の世界経済の趨勢

      当時アメリカのGDPは全世界GDPのうち35%を占めており、世界第1位でした、続く第2位の日本は12%、3位の西ドイツは5%でした。第2位と3位の国は第二次世界大戦敗戦国でした、共に脅威の復活です。アメリカはご存知の通り本土襲撃は受けず無傷でした。4位はフランス、5位はイギリスでした。中国は8位でした。

      (参考までに2023年では全世界GDPに対しアメリカ:26%、中国:16%、ドイツ・日本:各4%、インド・イギリス・フランス:各3%となっています。)

    2.アメリカのレーガン大統領のレーガノミクスによる大失敗

    レーガン大統領 出典:ウィッキペディア

    1981年に登場したレーガン大統領はレーガノミクスと題して以下の政策を推し進めていました。その結果が双子の赤字と言われる失敗を引き起こします。

    a.軍事面では強いアメリカを志向し、これによる国防費の増大。

    b.経済面ではそれまでのケインズ経済学による大きな政府から、アダム・スミスやフリードマン等の提唱する小さな政府への方針転換。つまり国の経済政策介入縮小、国民低負担低福祉社会化、大幅な減税です。

    (参考。大きな政府:国の経済政策介入大、国民高負担高福祉国家・・税金は高いが、公共サービスは充実。経済に国が積極的に介入。公務員が多い。
        小さな政府:国の経済政策介入小、国民低負担低福祉国家・・税金は安いが、公共サービスは充実していない。経済は自由競争。公務員は少ない。)

    大幅な減税により、財政の大幅な赤字化と、減税による国民の購買力増大による大幅なインフレが発生しました。
    このインフレを抑えるために金利を上昇させました。

    しかし、この金利上昇に伴い各国からドル買いが殺到し、ドル高が引き起こされました。

    このドル高によりアメリカからの輸出が激減、逆に輸入増大(特に日本および西ドイツから)となりました。

    これによりアメリカ国内は景気の悪化、失業者の増大、高インフレを更に増長させました。

    その結果、大幅な財政赤字と貿易赤字、所謂「双子の赤字」を抱え、その改善が必要になりました。

    日本からの輸入増大に対し、日米貿易摩擦も発生していました。

    3.プラザ合意

    アメリカは貿易赤字解消のため、G5(アメリカ、日本、西ドイツ、フランス、イギリス)での会議を開き、ドル髙をドル安へ誘導することを日本、西ドイツ、フランス、イギリスにせまります。これがプラザ合意です。
    最も主要な相手国は日本、当時は中曽根政権、大蔵大臣は竹下登でした。

    中曽根 康弘      竹下登 出典:ウィッキペディア

    1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催されたプラザ合意で4か国はアメリカによりドル安誘導へ合意させられます。

    アメリカの経済が危機的な状況になると、西側諸国への影響が大きくなるため、やむを得ず各国はドル安誘導に合意したと言われています。この会議は秘密裡に開催され、日本からは竹下登大蔵大臣が隠密的に出席しました。
    竹下登がプラザ合意出席し帰国直後、後の総理大臣宮澤喜一はドル安誘導に対し、竹下登に面と向かって激怒したと言われています。

    プラザホテル 出典:ウィッキペディア

    具体的な方策としては各国が大規模な外国為替協調介入を行うことで、各国通貨を10~12%切り上げるというものでした。 しかし、日本では10~12%での歯止めがかからず、二年間で約50%も切り上がってしまいました。 
    行き過ぎた切り上げに対処するために1987年にパリのルーブル宮殿でG7(G5+イタリア、カナダ)によるルーブル合意がなされましたが、効果はありませんでした。 
     
    日本では円が1ドル240円から120円へと二年間で急激な円高ドル安とりました。
    日本はたちまち輸出が滞り、不況になりました。これに対応するための日本政府の施策が後にバブルを引き起こします。

    出典:Amebaブログ

    4.バブル発生

    プラザ合意の結果、日本では円が1ドル240円から120円へと二年間で急激な円高ドル安とりました。日本はたちまち輸出が滞り、不況になりました。

    これに対し、政府は慌てて景気回復を目的として金利5%から2%台に引き下げる金融緩和策を実施しました。

    一方、円高の対応策として製造業界では生産コストを低減させるために、生産拠点を労働コストの安いアジア、東南アジアへ移転する企業が続出しました。また、自動車産業では日米欧の貿易摩擦回避、輸送費削減、部品の現地調達率対応、販売拠点に近い開発と生産の為にアメリカや欧州にも開発・生産拠点の一部を移転しました。自動車業界は極めて多くの部品メーカと協業しており、多くの部品メーカも海外進出し現地生産を行うことになりました。

    この各社の生産拠点の海外移転により、製造業界はコスト削減を主とした採算改善がなされ景気が良くなりました。

    しかし、これは後に日本国内の産業空洞化として、国内の雇用の悪化、日本の特技であった生産技術の優位性の喪失、生産拠点が在った日本の地方都市の衰退などを引き起こします。

    更に、円高ドル安は輸出とは逆の輸入に大きな経済効果をもたらしました。石油、石炭、鉄鉱石などの輸入原材料の大幅なコスト低減が遅れて実現され、製造業の業績が次第に重ねて景気が良くなりました。

    ここからがバブルの発生です。先ほどの低金利化による銀行借り入れの容易化と、この製造業の著しい業績回復により製造業界の資金がダブつきます。
    企業はこのダブついた資金の運用先として土地や株式への投資を始めました。
    瞬く間に土地価格や株式の上昇が始まり、投資した企業の利益が益々増大し、従業員のボーナス等として支払われました。
    懐が豊かになった個人も土地や株式の購入に走ります、不動産業界、建設業界、販売業界など多くに業界も巻き込まれました。

    銀行業界も融資さえすればどんどんリターンが舞い込んでくるので、取引相手に頼み込んで融資を盛んに行うようになりました。世の中、金が余っており、その使い道を探している状態です。

    土地価格、株価がどんどん上昇しました。上手く売り抜けた企業や人々は巨万の富を手に入れました。

    これがバブルです。
    当時を振り返って、1万円札がまるで千円札のようにどんどん使えたと多くの人々が語っています。

    バブルは1986年(昭和61年)12月~1991年(平成3年)頃までの約5年間続きます。

    出典:国土交通省

    当時、銀行業界は「護送船団方式」と呼ばれ、もっとも営業成績の悪い銀行でも倒産しないように国により手厚く保護されていました。まさに重厚長大な経営で、貸付の主たる相手は企業でした。

    景気が良くなり、企業の土地購入の他に個人による土地購入、住宅建設が盛んになり、個人の住宅ローンが増えました。個人の住宅ローンなどは夫々小口で手間がかかるため、銀行ではあまり取り扱わずに、各銀行が母体となり設立された「住宅金融専門会社」所謂「住専」に任されていきました。

    住専は銀行ではないので、顧客からの預金は取り扱えず資金は親銀行から調達します。所謂ノンバンクの貸金業であり、サラ金と同じ部類です。但し、経営トップや上層部は銀行からの天下りや出向人事でした。

    この土地に対する異常な投資加熱を冷却するために、時の海部総理大臣は「総量規制」を1990年(平成2年)3月に発動します。
    これは銀行に対し、「不動産融資の伸び率は総融資の伸び率の範囲内にせよ。」というものでした、つまり「不動産融資ばかりするな!」ということです。しかし、これは銀行に対する指示で、住専は対象外になっていました。

    当然、不動産融資を望む企業は融資をシャットアウトする銀行ではなく、住専に融資依頼を行うようになります。住専は元々個人の住宅ローンの審査しか出来ず、銀行のような企業の業績審査を行うノウハウや人手は殆どなく、極めて甘い審査でどんどん融資を行うようになりました。

    所謂地上げ屋が暗躍したのはこの頃です。暴力団を背景に地主や住民を恫喝したり騙したりして土地を買い漁り、まとまった区画として大手デベロッパーなどに転売することが横行していました。

    銀行や住専から融資を受けようとする顧客は通常は土地を担保に融資を依頼します。融資を行う側は担保の土地を市場土地価格の60~70%で担保として通常は評価を行いますが、当時は「土地は値下がりしない。」という土地神話が信じられており、融資を行う住専側も100~120%で評価しているケースもあったようです。
    これではもし土地価格が下がった場合に、融資の返済が滞って、担保物件を取り押さえ売却しても、融資分をカバーできず、当然不良債権となります。
    担保物件である甘い土地価格評価は住専ばかりでなく、一部の銀行でも行われていました。


    このようにして「不良債権候補」が山のように膨れ上がりました。

    一方、この土地や株取引加熱への対応として、政府は金利を3.75%から6%まで一挙に引き上げました。

    バブル発生の道のりを整理すると以下のようになります。

    (1)プラザ合意による円高。それによる不況発生。
    (2)政府は慌てて、金利引き下げによる景気浮揚対策実施。
    (3)企業は海外移転等自助努力により景気回復を果たす。
    (4)円高により原材料輸入コストの低減による更なる景気浮揚実現。
    (5)金利が低く、景気も良いので金余り状態になっている。
    (6)企業は余った金を土地や株に際限なく投資。
    (7)銀行、住専は儲かるので、いくらでも融資を行う。
    (8)融資を行う際の担保も土地であり、「土地神話」により担保の評価が極端に甘く融資額に見合っていない。
    (9)かくして、不良債権の山が出来上がる。(一説では総額100兆円と言われる、つまり日本政府の年間予算全額に匹敵。)

    次回はバブル崩壊のです。

  • 失われた30年ー第2回

    失われた30年―2

    今回はバブルとはいったい何か、また過去には事例があるのかについて調べてみようと思います。

    2.バブルとは何か

    株、土地、絵画、宝石など各種の資産価格が、投機目的で実態価格と乖離して異常に上がり続け、それらの資産額が膨らみ、大きな評価益が発生しているかのように見える状態のことです。

    実態価格との乖離が大きくなりすぎると、突然価格が必ず暴落しバブルが弾け崩壊し、投機した人は勿論、一般大衆まで巻き込まれた状態になり社会全体で膨大な損失を被ります。

    出典:金融大学ホームページ

    3.過去にはどのような例があるか

    過去には多くのバブルが発生し、崩壊しました。その中で中世のヨーロッパで発生したバブルの走りと言える代表的な例を下記します、いずれも商業が発達し始めたオランダ、フランス、イギリスで発生しました。


    (1)1637年のオランダのチューリップバブル(変位種のチューリップに人気殺到)

    当時の突然変異による珍しいチューリップ

    出典:ウィッキペディア

    珍しい種類のチューリップ(実は、病気による突然変異)が登場しその球根に人気が殺到し、投機対象になりました。

    ピーク時には球根1個の値段が当時の熟練技術者の年収の10倍程度まで高騰したと言われています。

    チューリップ関連業者以外の一般大衆にまで投機が広がりました。現物取引以外に先物取引やオプション取引の原型みたいなものが酒場で盛んに行われたと言われています。

    しかしある日「もう誰もそのチューリップは買わない」と言われ始め、たちまちその球根の価格が暴落し多くの人々が財産を無くしたと言われています。

    この突然変異種のチューリップは球根の株分けでは伝わるものの、種には伝わらず、現在には伝承されていません。

    当時の詳しい数値データは残存しておらず、正確な情報は不明なようです。


    (2)18世紀のフランスのミシシピー計画とイギリスの南海泡沫事件(膨大な国債の帳消し術)

    ルイ14世 ルイ15世 ジョン・ロー 

    出典: ウィッキペディア

    当時ルイ15世時代のフランスはその前のルイ14世時代のベルサイユ宮殿造営等大規模な支出や、ヨーロッパ最強の陸軍力を駆使した周辺国への侵攻等による戦争費用により国家予算の10年分という膨大な財政赤字を抱えており、それは国債で賄っていました。しかし、その国債は国家が借金返済不能なため、売買価格が額面の1/5以下に下がっていました。国の財政は完全に破綻状態でした。

    この状況下、救世主が現れます。スコットランド出身のジョン・ローはフランス王室にある策を持って接近しました。その策とは、財政の窮状を救うために、当時植民地であったアメリカのミシシピー川流域の開発を行う国営ミシシピー会社がミシシピー川流域を素晴らしい土地になるように開発するとの偽情報を国内に広く流布し株価を釣り上げ、国債を回収するというものでした。

    この海の向こうの開発偽情報によりミシシピー会社の株は暴騰。更に、その株の購入は通貨以外に国債、しかも元の額面価格として使用できるとしました。

    国民は手持ちの国債は額面の1/5しか価値が無いにも関わらず、ミシシピー会社の株を買う際には元の額面通りの価値として使用できたため、こぞって国債でミシシピー会社の株を購入した。もちろん通貨でもミシシピー会社の株を多数の人々も購入。

    ミシシピー会社は国債購入にあたり、有利な条件で新株発行の権限を与えられていました。
    更にジョン・ローは紙幣を多量に発行し、金余りの状態にしてミシシピー会社の株購入を煽りました。

    そのため、ミシシピー会社の株価は約20倍に暴騰、しかも国債を買い戻す形となったため、国の借金も帳消しになりました。この時のミシシピー会社の株式の時価総額は国家予算の30年分に相当しました。

    やがて、ミシシピー川流域開発は嘘であることがバレ、バブルは崩壊、株価は暴落し、多くの人々が財産を失った。しかし、国債は国営のミシシピー会社に買い戻されたために帳消しになり、国(国王)の借金は無くなりました。殆ど国家ぐるみの詐欺と言える事件でした。その後ジョン・ローは国外に逃亡しました。

    この事件は後のフランス革命(1789年)の遠因となったと言われています。

      同時代のイギリスでも同じような事件がおこりました。当時イギリスも軍事支出が膨大であり、それを国債で賄っておりましたが、ご多分に漏れずその処理に苦慮していました。

    この膨大な国債を帳消しにするために、国営会社(南海会社)の株を高騰させ、その株と国債を一見有利な条件で交換し、更には有利な条件で新株を発行していました。その後国営会社の株は大暴落となりました、フランスの例に酷似しています。この事件がバブル(泡沫)の語源になったと言われています。

    いずれも株価が異常に高騰した為に発生したバブルでした。

    オランダの例は通常の経済活動の中で発生しましたが、フランスやイギリスでの例は国家が国営会社の株価を意図的に釣り上げて、国の借金(国債)を吸い上げてしまうという悪辣な手段でした、当時の国家はやりたい放題のように見えます。現代ではそのような事が無いとよいのですが。

    次回は失われた30のきっかけになった今回のバブルについて調べてみます。

  • 失われた30年―第1回

    バブル崩壊以降から現在までの日本経済が衰退しっぱなしの時期を、「失われた30年」と呼ばれているのをよく聞きます。

    バブルの原因は「土地価格は永久に上昇し続ける」という土地価格神話が原因であるとよく言われています。本当にそれだけでしょうか、経済学に全く素人の私ですが少し調べてみたいと思います。

    1.何がどの程度30年間で失われているのか

    まず、どの程度衰退しっぱなしなのかをGDPおよび我々に身近な賃金の伸び率を主要国間の比較で見てみましょう。

    まず、GDP

    下図は先進主要国の1990年~2021年のGDP伸び率の比較です。1990年を100とした場合のGDPの変化を表しています。

    尚、実質GDPとは名目GDPに物価変動を加味したものです。

    出典:内閣府ホームページ

    このグラフから国全体の実質GDPの伸びではアメリカは30年間で約2倍に対し、日本は約1.3倍に留まっています。一人当たり実質GDPでもアメリカは約1.6倍に対し日本は約1.2倍に留まっています。

    次に国民一人当たりの賃金について見てみます。

    下のグラフは主要先進国の賃金の伸び率を表しています。1991年から2020年までの移り変わりです。1991年を100とした推移です。

    左のグラフは実際の名目賃金、右側は物価変動を加味した実質賃金です。

    出典:内閣府ホームページ

    右側の物価上昇率を加味した実質賃金では、アメリカは30年間で約46%の伸び、日本はたった約3%の伸びです。日本人は30年間殆ど賃金が上昇しない間に、アメリカやイギリスの賃金は約1.5倍になったという訳です。もし物価上昇を加味しなければ、アメリカやイギリスは約2.7倍になった訳です。

    日本人の賃金がこの30年間で上昇しておらず、生活水準が上昇していないことは多くの方々が実感として感じておられるのではないでしょうか。

    一方、日本の賃金が安いということは、優秀な研究者や技術者の海外頭脳流失を引き起こし、日本の技術停滞又は低下を招きます。

    逆に海外の優秀な研究者や技術者、更に労働者にとって、日本の低賃金は魅力がなく、技術の向上、労働力の確保の両面でマイナスの影響を及ぼしてしまいます。

    これは負のスパイラルを引き起こしていることも考えられます。 では、次回はバブルとは何か、またその歴史を見てみたいと思います。