プーチンによる侵略国家に何故ロシアがなってしまったのか、ごく最近の歴史を紐解いてみようと思います。
引き金になったのはゴルバチョフによるペレストロイカのロシア国内での失敗と思われます。
尚、自由諸国側からは、ペレストロイカは高く評価されていることが多いですが。
このロシア国内での失敗に続く政変が現在の状況を引き起こしたのではないか。
そこいら辺を再認識の為に、スローモーション的にレビューしてみようと思います。
では。
1917年のロシア革命以降、社会主義一党独裁国家として、経済面では、企業は全て国営、私有財産なし、製品(含む農産物)の生産は国の計画生産、製品やサービスの販売価格は厳しく国が統制かつ配給制。
人々は商店の前に常に長い行列を作っていた。
裏には闇市場があったと言われている。
化石燃料を除くと、国全体としては貿易赤字。
かつ西側諸国からの厳しい経済制裁もある状態。
通常であれば供給に対し需要が上回る状態なので、インフレが発生するはず。
しかし政府の厳しい価格統制のおかげで、インフレは発生していない。
物不足により人々の生活が犠牲になっていた。
このような状態が1986年に始まるゴルバチョフによるペレストロイカまで続いた。
ペレストロイカ-1:
1986年からソ連のゴルバチョフが始めたペレストロイカ。
政治体制並びに経済が硬直化して国民が困窮している状態を改善しようとすることが目的でした。
結果は残念ながら1991年のソ連の解体、ゴルバチョフの辞任という失敗に終わります。
では、何故失敗したのでしょうか。
ゴルバチョフは政治と経済をある程度自由化し、政治と経済の硬直化を改善できたらたら、国民の生活はよくなると考えました。
そのためにペレストロイカと同時に国民に対する情報開示(グラスノスチ)も行いオープンな政治をめざしました。
ソ連は共産主義国家でしたから、国民の私有財産を認めず、企業はすべて国営、物の生産計画はすべて国が管理、販売価格も全て国が決定。経済はすべて国の計画経済。
労働者はいくら頑張って働いても、また多少さぼっても給料は一定。給料が一定なら、仕事は少ないほうが良いと多くの人が考えます、そこで生産現場は非効率なまま。改善や効率化は対象外。生産効率を上げて利潤を追求することはない。
これは生産現場、販売最前線、物流業界、農業生産等全ての業種に共通でした。
この状態を改善するためにゴルバチョフは一部に自由主義経済を取り入れました。
物の価格の決定は従来からの国による価格統制ではなく、需要と供給のバランスから価格が決定されるという我々自由主義経済の人間からしたら当然の方式になりました。
しかし、従来から非効率な生産形態から製品の供給量は不足したままで、商店には全く不十分な商品量しかない状態で、需要は多い。しかし価格は国からの統制を外れ、需要と供給のバランスから決定される形態に変更。
品物の価格はどんどん上昇していきました。いわゆる供給不足によるインフレの発生です。このインフレの勢いはすさまじくて国民は物資を調達できなくなり、生活困窮に陥りました。従来からある闇市場でも価格は高騰していきました。
ペレストロイカ-2:
ゴルバチョフは当初は主要産業は国家の統制下に置きつつ自由市場と強力なセーフティネットとを混合した社会を目指し、目標が達成されるまでは10-15年かかると予測していた。最終目標はスカンジナビア・モデルに基づく社会民主主義国家の建設であった。
しかし、G7やIMFの圧力により経済的ショック療法いわゆる「ビッグバン・アプローチ」が推進されることとなった。
経済面に引き続き政治面に目を向けてみます。
情報開示(グラスノスチ)により、人々は西側諸国の自由な生活が見えるようになりました。更に今まで恐怖政治により抑えられていた自由な思想や言論が可能になり、国の政治に対する批判の声が大きくなりました。
ソビエト連邦は100を超える民族、15の社会主義共和国から構成されていました。それらの国々の中から次第に自治や独立の声が上がりはじめました。
エストニア、リトアニア、ラトビアのバルト三国が先ず独立を果たします。
引き続きカザフスタン、ジョージア、ウクライナも独立します。
又東欧諸国にも大きな影響が発生しました。ポーランドではソ連からの呪縛が解けて1989年から自由選挙がおこなわれるようになりました。1989年11月9日にはベルリンの壁が崩壊、翌年には東西ドイツ統一が行われました。
ソ連内部ではペレストロイカに反対する保守派によるクーデター未遂事件が1991年8月に発生しゴルバチョフは一時軟禁状態になりました。このクーデターにはゴルバチョフの側近達も多数参加していました。
これに対し当時ロシア社会主義共和国の大統領であった急進派エリツィンが演説により民衆と軍隊を味方につけてクーデターを未遂に終わらせました。
ゴルバチョフは1991年8月に責任を取って共産党書記長を辞任し、クーデターに関与していたソ連共産党を解党しました。更に同年12月にはソ連大統領を辞任、ソ連は解体されることとなりました。
かくしてペレストロイカは未完成のまま終了しました。
急進独裁のエリツィン登場
初代ロシア連邦大統領として登場したのがエリツィンです。
エリツィンは急進的に経済の自由化を進めました。
国営企業の民営化を図るために、多数の国営企業を民間の有力者に極めて安い価格で払い下げました。この新しい経営者集団が現在のオルガルヒのもととなります。貧困にあえぐ一般国民とは全く対照的な富裕層ですが、人数はごく少数です。
この経営者集団は政府と癒着します。全くやりたい放題です。かくしてソ連国内は国民のごく一部を占める企業経営者と、大多数を占める生活に喘ぐ一般国民の間に著しく貧富の差が拡大しました。
ナオミ・クライン著の「ショック・ドクトリン」の中で述べられている「回転ドア」的なものが運用されていた可能性もあります。
回転ドアとは、フリードマン経済学(シカゴ学派)により小さい政府を目指す国家が国営企業を民営化した後に現れる政府とその民営化された企業の癒着のことです。
民営化された企業のトップと政府の役人が回転ドアを通して自由に行き来して、民営化した企業の利潤拡大に向けた法案作を役人が作り、回転ドアを通して該当企業の役職に就く。逆に、企業のトップが回転ドアを通って政治家となり、企業に都合の良い法案を作成する。これを繰り返して、巨万の富を築く方式です。
やがてエリツィンは独裁的になり、オルガリヒの支持により1996年の大統領選に再選を果たします。エリツィンは汚職まみれになります、ロシアの改革は停止してしまいます。やがて体調を崩し、1999年に首相をプーチンに指名し辞任します。
プーチンー1 登場(1999~2004年)
プーチンはKGB(FSB)元長官時代に、当時大統領であったエリツィンを二度にわたり助けます。
一つは汚職にまみれたエリツンのマネーロンダリング疑惑を捜査していた検事総長を女性スキャンダルにより失職させエリツィンを救いました。
もう一つはエリツィンの失脚を狙ったクーデターを未然に防ぎました。
これらによりプーチンはエリツィンの信頼を得て、首相に任命された。
プーチンは第二次チェチェン紛争に大規模爆撃、弾道ミサイルによる攻撃など辣腕を振るい、「強いリーダー」のイメージを築き上げ国民の支持を得ました、しかし外側から見ると問題ありです。
エリツィンが健康上の理由により引退するにあたり、プーチンは首相に引き続き大統領代行にエリツィンにより指名された。
プーチンが大統領代行になって先ずやったことは、汚職エリツィンの不逮捕・不起訴特権を与えたことであった。これはプーチン自身が大統領を退いた後の政敵からの保身を見据えたものである。
2000年大統領選挙で当選。中央集権化を進める。
ロシアの主要輸出品である原油価格が高騰し、ロシア経済は著しく豊になり国民からプーチンは強い支持を得た。
エリツィン時代のオルガルヒ(財閥集団)は政府と癒着し、納税回避を行うなど国家財政に著しい悪影響を与えていた。プーチンはオルガルヒと対峙し、企業の政治介入を防止、さらには殆どのオルガルヒを逮捕して制圧。ただしプーチンと親しいごく一部のオルガルヒのみは優遇された。
プーチンー2 2期目(2004~2008年)
2004年の大統領選で70%以上の得票率でプーチンは大統領に再選。
引き続く原油価格の高騰によりロシア経済は著しく改善され、国外債務の返済も果たす。併せて保健、教育、住宅建設、農業の4分野の社会基盤整備を進め、これの推進役としてメドベージェフを第一副首相に任命。
地方の知事を直接選挙制から大統領による任命制へと変更し、さらなる中央集権化を実施し大統領の権限強化を図ります。
プーチンに対し批判的な人物の暗殺と思われる事件が相次ぐ。
第二次チェチェン紛争でロシアによるチェチェン人への人権侵害を訴えた女性ジャーナリストのアンナ・ポリトフスカヤの殺害。
プーチンを批判しイギリスへ亡命していた元KGB(FSB)職員アレクサンドル・リトビネンコの殺害。
元オルガルヒでイギリスへ亡命していたボリス・ベレゾフスキーの暗殺未遂など。
ロシアでは大統領は連続3選が禁止されているため、子飼いのメドベージェフを後継として支援することを表明。予定通りメドベージェフが次期大統領になる。メドベージェフにより予定通りプーチンを首相に指名。
メドベージェフ大統領(2008~2012年)
メドベージェフは大統領の任期を従来の4年から6年への変更を議会へ提案し承認される。
次期大統領から任期を6年とすることとなった、これは勿論プーチンの差し金。
プーチンー3 3期目(2012~2018年)
クリミア半島併合
2014年にロシアはウクライナの領土であったクリミア半島を併合してしまいます。
しかしこれは国際連合、ウクライナ、日本を含む西側諸国は認めていません。
クリミア半島は温暖な地で古くから保養地となっていました。
同半島の南端ヤルタはチェーホフの「犬を連れた奥さん」の舞台にもなっていました。
ここヤルタは第二次世界大戦末期1945年2月に戦後を見据えた世界秩序を決めたヤルタ会談が開かれた所でも有名です。出席者はイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長。
なおこの時の極東密約として「日ソ中立条約」の一方的破棄、ソ連の対日参戦が決められました。
このクリミア半島は第二次世界大戦終了から9年後の1954年に、当時のソ連共産党第一書記フルシチョフによりロシア共和国からウクライナ共和国へ割譲されました。
表向きには当時のロシア共和国からウクライナ共和国への両国の友好の証。
その裏にはロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたのです。
1991年ペレストロイカ失敗によるソ連の解体に伴い、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳によるベロヴェーシ会談においてクリミア半島の扱いが協議された。
出席者はロシアのエリツィン大統領、ウクライナのクラフチューク大統領、ベラルーシのシュシケービッチ最高会議議長。この会議の主要テーマはソ連解体に伴う「独立国家共同体(CIS)の設立であった、これに伴い国境も討議された。
ウクライナは1954年にクリミア半島がウクライナに移管されていることを根拠に領有を主張、一方のロシアはもともとロシア領であったと領有を主張。
ロシアはウクライナが核を保有しないことを条件にウクライナのクリミア半島領有を認めた。
これによりロシアは黒海への出口をふさがれることとなった、これはロシアにとって地中海方面への出口並びに重要な不凍港を一つ失うことであった。
ロシアにとって喉から手が出るほどに欲しいクリミア半島。クリミア半島の住民はロシア人が多数を占めている。
クリミア半島が帰属しているウクライナ憲法では領土変更はウクライナ全土の国民投票によってのみ議決できると定められている。
クリミア半島をどうしても入手したいプーチンは一計を案じた。
クリミア半島のウクライナからの独立宣言を行わせ、独立国家としてクリミア半島の住民投票によりクリミア半島の帰属を決めることとした。
2014年3月16日にクリミア半島のみによる住民投票が行われ、その結果ウクライナからの独立とロシアへの併合が決まった、とプーチンはした。
これに対し、ウクライナは領土保全の訴状を国連安保理に提出するも、ロシアの拒否権行使により否決。引き続き国連総会決議に提訴、ここでは賛成多数で採択された(賛成100,反対11,棄権58(欠席24))。
プーチンは国連総会決議を現在も無視し続けている。
西側各国はロシアに対し経済制裁を実施。
更に当時のG8(主要国首脳会議)メンバーからロシアを外し、再びG7とした。
プーチンー4 4期目(2018~)
2018年のロシア連邦大統領選では得票率76%で圧勝、任期満了は2024年となった。
プーチンが2022年2月24日からウクライナを激しく侵攻しています。
ロシアの歴史概要
プーチンの頭の中には歴史的背景があるともいわれています。そこでウクライナ、ロシアその周辺国(ここではロシア地方と仮称、ほぼ旧ソ連と同じ範囲)の歴史概要を調べてみたいと思います。ロシア地方には100を超える民族おり、言語も同じく100以上あります。
1.西暦862年ロシア地方に最初の国家ができました。「ノブゴロド公国」です。
場所はエストニアの東に伸ばした直線とサンクトペテルブルグの南に伸ばした直線の交点のあたりです。
住人はスラブ人やマジャール人など多種の民族でありましたが、彼らを抑え統治したのは北欧からバルト海を通ってやって来たヴァイキング(ノルマン人)です。
そのヴァイキングの部族名がルスであり、これにちなんで地域名がルーシとなり、のちに「ロシア」という地名になったといわれています。
2.882年ヴァイキングは更に南方のキエフ(キーウ)を征服し、「キエフ公国」が誕生、正式な国号は「ルーシ」です。
但し、「ノブゴロド公国」も「キエフ公国」もこの時点では一地方政権に過ぎません。ロシアという国号が正式に生まれるのは18世紀初めのピョートル1世の「ロシア帝国」からです。
「キエフ公国」は一族の内紛により次第に弱体化していきます。
3.1240年モンゴル来襲により「キエフ大公国(ルーシ)」は跡形もなく滅亡します。
モンゴル軍は抵抗した国に対しては全員殺害等の大変残酷な対応をしておりました。
以降数百年間はキエフに無人のまま放置されていました。
参考に日本への蒙古来襲は1274年と1281年です。
4.新興した「モスクワ大公国」はモンゴルに隷属していましたが、1480年にモンゴルからの独立を果たします。
5.1547年からモスクワ大公はツァリーと称します。
親衛隊を組織し恐怖政治を行い、近隣の国家を征服。
6.1613年にロマノフ朝が始まる。
1670年農民反乱ステンカラージンの反乱を鎮圧し、農奴制の強化を図る。
一時リトアニアに奪われていたウクライナ(かってのキエフ公国)の東部とキエフを奪還した。
7.17世紀末にピョートル1世がツァリーとなる。
ロシアが西欧諸国に伍していくにはバルト海に進出する必要があると、1712年首都をモスクワからサンクトペテルブルグへ遷都する。
従来の「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となる。
8.1812年アレクサンドル1世はナポレオンの侵攻を撃退。
9.1856年クリミア戦争に敗北。これはバルカン半島の南下をめぐり、ロシアがオスマントルコ、イギリス、フランス、サルディニア連合と戦ったもの。ロシアの近代化の遅れが露呈された。
10.1891年東方進出を狙いシベリア鉄道の建設開始。モスクワ~ウラジオストーク間。これにより、中国、朝鮮、日本と緊張状態となる。
11.1904年日露戦争に敗北(実態は痛み分けに近い)。更に第一次ロシア革命勃発。
12.1914年第一次世界大戦開始。第二次ロシア革命(二月革命、十月革命)
1918年首都を再度モスクワへ移す。
13.1922年ソビエト社会主義共和国連邦成立。当初ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカースの4か国から構成、後に15か国からの構成となる。
14.1925年スターリンによる独裁体制開始。
15.1941年第二次世界大戦開始。
16.1991年ペレストロイカの影響によりソビエト連邦解体。ロシアは従来のロシア共和国からロシア連邦へ改称。初代大統領はエリツィン。資本主義経済、議会制民主主義を導入。
プーチンが就任。チェチェン共和国の分離運動を激しく弾圧。
17.2008年グルジア内の南オセチアが独立宣言をしたことからグルジア紛争が始まる。
18.2014年無理やりクリミア半島を併合(国際的には未承認)。
ウクライナの歴史概要
プーチンの頭の中にはウクライナはロシアの一部であるとの思いがあるのではないかと思われる。そこで、ウクライナの歴史を紐解きたい。
前回でロシアの歴史超概略を調べたが、キエフ公国がモンゴルにより1240年に滅亡された処まではロシアとウクライナに共通することなので、そこからのウクライナの歩みを明らかにします。
ウクライナの歴史にはリトアニアが深くかかわります。
リトアニアは現在バルト三国の最も南に位置する小国ですが、14世紀には現在のベラルーシ、ウクライナを含む大国でした。
16世紀末にはリトアニアは西隣のポーランドと一体化し、リトアニア=ポーランド王国となり、16~17世紀には欧州で一番大きな国の一つになりました。
リトアニアはインド=ヨーロッパ語族で、ポーランドはスラブ民族です。
1.1240年モンゴル来襲により「キエフ大公国(ルーシ)」は跡形もなく滅亡。
2.1362年リトアニア大公国が現在のウクライナ北部とベラルーシを占領。モンゴルは撤退。
3.1569年ポーランド王国がリトアニア大公国を合併しリトアニア=ポーランド王国となる。呼称は主としてポーランドとなる。
6.1648年と1709年にコサック出身の二人の頭領によりウクライナ独立戦争が行われたが失敗。
5.1667年ロシアがウウライナの東部を占領。
6.1795年ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの3国により分割されて国家が消滅。
この時ウクライナの8割がロシア領に編入され、残りはオーストリアに支配されることとなった。
7.1917年のロシア革命でバルト三国が独立。
8.1918年第一次世界大戦終結と共にポーランドが独立。
9.1922~1940年ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国他全15か国のロシア地方は全てソビエト連邦に吸収された。
10.1932~1933年ホロドモールと呼ばれるスターリン政権によるロシア革命反対者への意図的な大飢饉がウクライナに発生、餓死者は400~1000万人と言われている。(これはジェノサイド(民族大量虐殺)であると2022年12月に欧州連合(EU)欧州議会で認定が採択された。)
11.1954年クリミア半島がロシアからウクライナへソ連の第一書記フルシチョフにより移管される。
12.1990年前後にソ連瓦解によりバルト三国、ウクライナ、ベラルーシ、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア、カザフスタン、キルギス、モルドバ、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、ロシアが独立。
以上がウクライナの超概略史であるが、ウクライナは各国から度々占領され、かつ意図的な大飢饉に見舞われるなど、かなり悲惨な運命をたどってきたことが分かります。
プーチンの主張
1.ウクライナについて
(1)2021年プーチンは一つの論文を発表した。それによるとロシア人とウクライナ人は「ひとつの国民」だと主張。
(2)2022年の演説では、今のウクライナは共産主義時代のロシアが作り上げたもので、今や西側に操られている傀儡国家だとした。
2.NATOについて
(1)1997年以降にNATOに加盟した国々からNATOが部隊や軍事機構を撤去することを要求。(1997年以降のNATO加盟国は、中欧、東欧、バルト三国を指す。)。
(2)NATOが「ロシア国境の近くに攻撃兵器」を配備しないことを要求。
(3)もしウクライナがNATOに加盟すれば、NATOはクリミア半島を奪還しようとするかもしれないと主張。
3.ソヴィエト連邦崩壊について
(1)1991年12月のソヴィエト連邦崩壊を「歴史的なロシアの崩壊」だとしている。
上記プーチンの主張から窺えるのは、
1.ウクライナに対する認識には前回の「ロシア・スローモーションレビュー9」でウクライナの歴史を調べた限りでは全く客観性がない。
2.NATOについてはかなり恐れている。
3.ソヴィエト連邦崩壊については、崩壊以前の姿に戻したいのではないかと推察される。
更にはロシア国内では強いロシアを顕示することにより、国民の支持を得ることを狙っていると思われる。しかし、国民の支持を得るには経済を立て直す方が効果的だと思えるのだが。
要するにプーチンがウクライナを侵攻する理由が全く理解できない。
何か精神的な問題があるのではないかとすら思ってしまう。
何しろ世界中を困らせているだけなのだから。
一刻も早くプーチンはウクライナから撤退すべきである!
西側諸国はウクライナ側への戦争加担のみに走るのではなく、もっと戦争回避に動くべきである。
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