最近、イラク戦争に関するある記事が目に留まりました。
タイトル:「【寄稿】イラク侵攻から20年の苦い教訓 考え抜かずに始められた戦争」
著者:リチャード・ハース米外交問題評議会名誉会長 翻訳:永田和男
出典:読売クオータリー2023夏号
以下に要旨のみをご紹介します。
■2003年に米国が始めたイラク戦争は、武力行使以外の選択肢を十分検討しないまま実施された、必要性を疑われる戦争だった。2001年の同時テロ後に米国を覆っていた特殊な雰囲気も冷静な判断を難しくしていた。
■米軍はフセイン体制をすぐ打倒したが、占領計画はずさんだった。民主主義が根付く土壌があるかなど、現地事情に関する無知は致命的だった。
■戦争は甚大な人的被害と経済的損失をもたらし、国連の支持なしに開戦に突き進んだことで米国の国際的立場を弱めた。その影響は今日の国際情勢にも及ぶ。
■米政府はイラクに大量破壊兵器があると嘘をついたのでなく、存在を信じていた。開戦には議会で超党派の支持があったが、だから正しい政策だったとは言えない。
要旨は以上の通りです。
これを読んで、日本からはやや遠い感じがする湾岸諸国の近代史概略をレビューしてみることにいたしました。湾岸諸国といっても今回は限られた範囲です。
範囲としては以下の通りとします。
1.イラン革命前後のイラン ・・・イランに発生した劇的な変化(1979年)
2.イラン・イラク戦争 ・・・イラクによるイラン侵攻(1980~1988年)
3.湾岸戦争 ・・・クウェートに侵攻したイラクに対し、多国籍軍が攻撃
(1991年)
4.イラク戦争前後 ・・・アメリカによるイラク侵攻(2003~2011年)
イラン革命前後のイラン
イランは昔ペルシャと呼ばれていました。紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャをはじめ、さまざまな王朝が入れ替わり、途中の7世紀からイスラム教が広まりました。
1908年にペルシャで油田が発見され、この頃からペルシャの歴史は大きく変わります。
1935年からイランという国号になりました、当時の王朝名はプフレヴィー朝といいます。
そのパフレヴィー朝はアメリカ資本と組んで石油資源開発などを行い、その利益を王朝が独占する体制でした。ゆえに石油が出ても、国民の生活は向上しませんでした。それどころか、王朝に反対する人々を秘密警察により弾圧し、近代化の名のもとにイスラム勢力を弾圧し排除していました。
1979年1月にイラン革命というのが発生しました。
当時王朝と対立し、国外(フランス)へ追放となっていたイスラム・シーア派最高指導者ホメイニ師が国外からイランの反政府活動を指導し、1979年1月にパフレヴィー朝を倒し、翌2月に政権を掌握しました。パフレヴィー朝の皇帝はアメリカへ亡命しました。
この時からイランはイスラム教シーア派の国家となります。
この革命には続きがあります。アメリカへ亡命したパフレヴィー朝の皇帝の引き渡しをイランが要求したところ、アメリカが拒否。革命支持派の学生を中心とした民衆が激高し、イランのアメリカ大使館を占拠し、1979年11月に館員52名を人質としてしまいました。当時のアメリカ大統領カーターはこの人質の救出作戦を試みましたが失敗してしまいます。1980年7月にパフレヴィー朝の皇帝が病気で死去し、その後の1981年1月にやっと館員は444日ぶりに全員解放されました。
ここでイスラムのスンニ派とシーア派についての基本的知識を記載します(出典:日本経済新聞社)
===========
同じイスラム教徒でありながらスンニ派とシーア派の国はなぜ対立するのか。背景には原油などの経済利権を巡る争いもある。
Q スンニ派とシーア派の違いは。
A もともとは預言者であるムハンマドの後継者をめぐる考え方の違いがある。632年にムハンマドが死去した後、娘婿でいとこのアリを含む4人を最高指導者のカリフとして認めたスンニ派に対し、シーア派はアリとその子孫を正統な後継者と位置づける。世界のイスラム教徒人口のうちスンニ派が約8割、シーア派が1割強を占めるとされる。
Q どうして対立するのか。
A 必ずしも信者同士が互いを敵視しているわけではない。イラクなどでは異なる宗派同士が結婚することもしばしばだ。表面的には宗派対立でも、実は経済的な利権争いであることも多い。スンニ派の王室が支配するサウジアラビアでは東部の油田地帯にシーア派が多く暮らすが、経済的に冷遇されていると不満をくすぶらせている。
イラクではフセイン政権の崩壊で多数派のシーア派が政権を握った。利権を失ったスンニ派旧支配層が過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭に手を貸したとされる。
Q 対立が戦争に発展した事例もあるのか。
A 1980~88年まで続いたイラン・イラク戦争はシーア派のイランによるイスラム革命の影響が及ぶことを恐れたサウジなどの湾岸諸国が当時はスンニ派政権だったイラクを後押しする構図だった。現在(2016年現在)進行中のイエメンやシリアの内戦も、中東地域の覇権を巡る代理戦争の様相を呈している。
=============
イラン・イラク戦争
1980年9月~1988年8月、9年間にわたるイランとイラク間の戦争です。
イランの歴史については「湾岸諸国の近代史―3 イラン革命前後のイラン」で簡単に御紹介しましたので、ここではイラクについて紹介します。
「イラン・イラク戦争までのイラク超概略史」
イラクは歴史で習ったシュメール人によるメソポタミア文明発祥の地とほぼ地理的に重なります。
チグリス・ユーフラテス川下流域に発達し、紀元前3200年頃には粘土板に文字が刻まれていました。
イランと同じく、紀元前6世紀アケメネス朝ペルシャの一部となっていました。
7世紀からイスラム教が広まりました。
様々な王朝による支配が続き、やがてオスマン帝国の一部となりました。
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、イギリスとフランス(サイクス・ピコ協定)によりオスマン帝国から分離され、イギリス委任統治領となり、その後イスラム・スンナ派のハーシム王家によるイラク王国となり独立しました。
この辺の話は昔の映画「アラビアのローレンス」に出てきます。
1927年に大規模な油田が発見されました。
第二次世界大戦後の1958年のクーデターにより王朝が倒され、イラク共和国になりました。
1979年からサダム・フセインが大統領となっていました。
「戦争の原因」
1.チグリス・ユーフラテス川、この二本の川が合流してシャッタル・アラブ川となりペルシャ湾に注ぎます。
このシャッタル・アラブ川がイランとイラクの国境になっています。このシャッタル・アラブ川河口付近の石油積出港の領土問題と航行権でイランとイラクが争います。
2.1979年にイランで発生したイラン革命、これによりイランはイスラム教シーア派の国になりました。イラクにもシーア派が沢山住んでいますが、政体はスンニ派でシーア派およびクルド人を抑圧して政権を維持していました。
このシーア派によるイラン革命がイラクへ拡大移入されると、イラクの政体が危うくなるため、これの伝播を防ぐ必要がありました。
「戦争の経緯」
イラクが1980年9月22日未明にイランへ侵攻。アメリカはイランのアメリカ大使館人質事件でイランと対立関係にあり、更にイラン革命の輸出を恐れ、積極的にイラクを支援。
イランはイラン革命以前では親米政権であったため、アメリカ製兵器を多数保持していた。これら使いイラックへ反撃。
イラクは反撃してきたイラン軍に対し、毒ガス兵器を使用。イラン国内のクルド人がイラン側についたために、クルド人に対しても毒ガス兵器を使用。これにより多数の死傷者が発生。イランとイラクは隣国同士で互いにミサイルで攻撃しあうようになる。
イラクはソ連、フランス、中国からも武器を多量に輸入する。
1987年7月に国連安保理が即時停戦決議を全会一致で採択した。翌年両国がこれを受諾し1988年8月20日に停戦となった。
1990年9月10日に両国の国交が回復。
上述のようにイラクは毒ガス兵器を多用し、多量の毒ガス兵器を保持していることが判明した。毒ガス兵器は貧乏人の核兵器ともいわれ、第一次世界大戦から使用され始め、安いコストで大量に生産できるので国際的に十分な注意を払う必要がある。
「現地駐在日本人救援」
いくつかの日本企業がODA(政府開発援助)としてイランに、土木工事などでイラクに日本人が駐在していた。イラクのサダム・フセインが1985年3月17日に突然48時間後以降にイラン上空を飛ぶ飛行機は全て撃墜すると発表。
イラクからは航空制限が無いので、各社の航空機を使用して脱出できました。
イランに住む各国駐在員はイラン上空の飛行が48時間後に不可能になるので、慌てて日本人以外は自国の航空会社救援機又は自国軍救援機により脱出できました。
しかし日本人は取り残されてしまいました。
当時の自衛隊法では自衛隊機を派遣することは不可能でした。
また日本航空を派遣しようにも安全が確認できないと派遣できないと、日本政府は判断してしまいました。
在イラン日本大使館では救援機を派遣した各国と懸命の交渉をしましたが、各国とも自国民を救援するので手一杯で協力は得られませんでした。
制限時間の48時間はどんどん迫ります。
日本人救援は行き詰ってしまいました。
土壇場になって、伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永氏が旧知のトルコのオザル首相に救援を依頼したところ、トルコから即座に救援機2機がイランへ派遣され、日本人が脱出できました、タイムリミットの1時間15分前のことでした。
トルコが日本人の為に救援機を出した理由は1890年(明治23年)にトルコから日本へ親善訪問したフリゲート艦エルトゥールル号が、帰路和歌山県串本町沖で台風にあい座礁遭難し、その乗組員達を住民達が台風の中、必死になって救助介護したことへのお礼でありました。
次回は湾岸戦争です。
コメント