第1次世界大戦(1914-1918 大正3-7)

いよいよ第1次世界大戦です。日本は勝利しましたが、じつは端っこを少し齧った程度なので、戦争の中心地であった西欧の話しをいたしましょう。
この戦争では欧州を中心に1,600万人もの尊い命が奪われました。

ドイツの情勢

第一次世界大戦は1914年から始まりますが、その少し前の1871年まではドイツと言う国は有りませんでした。プロイセンと言う国を中心として、小さな国がバラバラに存在していました。西隣はフランス。フランスはカトリック、プロイセン周辺は一部を除きプロテスタント。両者は極めて仲が悪い、即ち宗教上の対立です。

プロイセンの首相にビスマルクが任ぜられると、彼はプロイセン周辺国家を統合し、1871年にドイツを設立しました。これがドイツの始まり、結構ドイツの歴史は浅いのです。

この統合の途中で、アルザスロレーヌ地方が問題になりました。昔の教科書に載っていた最後の授業の舞台です。あの物語自体は歴史を正確には反映していません。

元々、神聖ローマ帝国時代からフランス領では有りませんでした。ある時からフランス領になったものです。故に住民はドイツ語に近い言語を話していました。

そのアルザスロレーヌ地方は鉄や石炭などの地下鉱物資源が豊富な所です。かつその地方はカトリックなのです。

ドイツ統一に際し、ビスマルクは本意では無かったようですが、軍部に押し切られてドイツに組み込みました。

これがフランス国民の怒りをかっていました。

ビスマルクはドイツの初代皇帝ヴィルヘルム1世の元で宰相として働いていましたが、やがてヴィルヘルム1世が亡くなり、引き継いだヴィルヘルム2世とは政策上の相違から辞任してしまいます。

ビスマルクは周辺の国々とは安定をもたらす政策でしたが、ヴィルヘルム2世は異なります。東アジアへの進出を狙い、ベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バクダッドを鉄道で結ぶ計画を立てます。これはロシアの南下政策とはバルカン半島でもろにぶつかります。

また、バクダッド経由でペルシャ湾を経てインド洋に出ると、当時インドを植民地としていたイギリスの艦隊ともろにぶつかることとなります。

このドイツの政策がロシア及びイギリスとの関係をこじらせ、第一次世界大戦の火種になります。尚、イギリスは最初は中立の立場をとります。

フランスの情勢

フランス革命(1789年)以降、フランスの政治は全く定まらない状況でした。

1789年 フランス革命

1792年 第一共和制

1804年 ナポレオンによる第一帝政

1814年 第一次復古王政

1815年 第二復古王政

1848年 第二共和制

1852年 ナポレオン3世による第二帝政

1875年第 三共和制

といった具合です。全く目まぐるしいですね。

ドイツへの怨念が激しく、ドイツを挟み打ちにするつもりで、ロシア、イギリスと組んで三国協商をむすびます。

イギリスの情勢

次はイギリスです。

イギリスは日本と日英同盟を締結していました。これは一方の国が複数国と交戦状態になれば加勢する、しかし1国と交戦状態ならば、中立を守るというものでした。これのお陰で日本は安心して日露戦争を行えました。

そのイギリスは植民地インドとの航路の確保が必須で、航路は二つありました。一つは地中海→スエズ運河→紅海→インド、もう一つはアフリカの最南端ケープタウン→インド。そのため、フランス人レセップスによるスエズ運河を買収、エジプト、紅海沿岸に接するスーダンへの侵攻、更に南アフリカへの侵攻。これらはフランス、ドイツとアフリカ大陸内で衝突をくり返しながら実施され成功しました。

バルカン半島の情勢

次はヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島です。

当時はドイツが東に支配を広げるためにベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バクダッドを結ぶ鉄道を計画していました。これにはバルカン半島を通過する必要があり、仲間のオーストリアを使ってバルカン半島を専有する意図がありました。

一方ロシアは小麦輸出および軍港のための不凍港が必要であり、バルカン半島を狙っていました、ロシア人はスラブ民族です。バルカン半島のスラブ民族を後押し、専有する意図がありました。

その昔バルカン半島は永らくオスマン帝国が領有していましたが、オスマン帝国が衰退すると南半分にスラブ人国家が多数独立しました。ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、アルバニア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャなどです。

一方、北半分はゲルマン人であるオーストリアが領有。ゲルマン人とスラブ民族の対立が起こります。

まず、オーストリアはスラブ人国家であるボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻し領有しました。

その後、オーストリア皇太子夫妻が領有したボスニア・ヘルツェゴビナの州都であるサライェヴォを訪問しましたが、この際にセルビア人青年に暗殺されてしまいました、有名なサライェヴォ事件です。

これが一発触発のバルカン半島に火を点け、第一次世界大戦を引き起こしました。

サライェヴォ事件から第一次世界大戦へ至る経緯

1914年6月28日 サライェヴォ事件発生。

7月28日 オーストリアがセルビアへ宣戦布告

7月30日 ロシアが総動員令発令

8月1日 ドイツがロシアに宣戦布告

ロシアは不利が予想された為、三国協商の一員であるフランスに協力依頼、ドイツを東西から挟み込む作戦。

8月1日 フランスは総動員令発令。

8月3日 ドイツがフランスに宣戦布告。

ドイツはフランスのパリに攻め込む際に、ショートカットの為にベルギーへ侵攻後フランスへ軍を進める。ベルギーは当時中立国を宣戦していた。

イギリスも当初中立であったが、ドイツのベルギー侵攻を見て参戦を決意。

8月4日 イギリスがドイツに宣戦布告。

日本は当時イギリスと日英同盟を結んでいたため、参戦。

8月23日 日本がドイツに宣戦布告。

11月初頭 イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告

1915年5月23日 イタリアは当初ドイツ、オーストリアと同じ三国同盟の一員であったが、裏切ってフランス、ロシア、イギリス側の三国協商に寝返った。そして、オーストリアに宣戦布告した。

アメリカは当初中立であったが、ドイツの潜水艦により米国人が沢山乗船していた客船ルシタニア号が撃沈され、国民感情が対ドイツとなった。

1917年4月6日 アメリカがドイツに宣戦布告。

日本のへの影響

日本は参戦によりアジア圏及び南太平洋でのドイツの植民地を奪い取りました。

中国の青島と山東半島および、南太平洋の赤道以北の島々です。

この赤道以北の島々はマリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島、ビキニ島などかなり広範囲な領域に渡ります。

日本の参戦については、日英同盟に基づいていますが、必須事項ではなかったため、日本国内では参戦について政界で賛否両論が戦わされました。

又、英国やアメリカは日本が中国に深く入り込むのではないかと大いに懸念されていました。中国は彼等も強く狙っていた為です。

また、人種差別もありアメリカは日本をかなり警戒するとともに嫌っていました。

イギリスの秘密条約

連合国(協商国)側リーダであるイギリスの秘密条約。

当初敵側の同盟国の一員であったイタリアの抱き込み。

ロンドン秘密条約。

イタリアは一部地域を同じく同盟国側であったオーストリアに占領されていた。イギリスはイタリアに連合国側に寝返れば、連合国が勝利した暁には、オーストリアに占領されている地域をイタリアのものにしてやると約束して、連合国側に寝替えさせた。まるで日本の関ヶ原の戦いの小早川ですね。

次は同じくイギリスの秘密条約、所謂有名な三枚舌外交。

なぜ三枚舌と言うか、それは同じ地域に関し、三者と別々の約束をしたからです。

全く酷い話しです。これの後遺症は現在も尾を引いています。

その対象地域は同盟国のオスマン帝国の領土です、特にパレスチナを含みます。

1枚目 フセイン・マクマホン協定。

イギリスはアラブ人にオスマン帝国の領地(パレスチナを含む)にアラブ人国家の独立を約束。

2枚目 サイクス・ピコ協定。

イギリスは連合国のフランス、ロシアに対し、オスマン帝国の領地をイタリア、フランス、ロシアの三国で分割することを約束。

3枚目 バルフォア宣言。

イギリスはユダヤ人にオスマン帝国の領地であるパレスチナにユダヤ人国家建設を支援するというもの。これは戦費をユダヤ人から借り入れる為です。

戦況

では、第一次世界大戦の戦況をごく大雑把に。

ドイツ・オーストリアの西はフランスに(ドイツから見て西部戦線)、東はロシアに挟まれ(ドイツから見て東部戦線)、更に北は遅れて参戦したイギリスに囲まれます。

西部戦線ではフランスが辛うじて守りきりました。

東部戦線では最初はドイツ・オーストリアが有利でしたが、ロシアを東へ深追いし過ぎて冬将軍にやられます。

更にそこにアメリカが参戦。

ロシアはロシア革命勃発で戦線離脱。

それまで全体としては膠着状態でありましたが、アメリカ参戦で一気に協商国(連合国)(イギリス帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国、大日本帝国、イタリア王国、ロシア帝国、他)側の勝利となりました。

負けたのは同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)。

尚、ドイツは1918年11月に革命が発生し、問題が多かったヴィルヘルム2世は亡命、ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ共和国となりました。

ロシア帝国はご存知のとおり1917年の2月及び10月革命により崩壊し、ソビエト社会主義共和国連邦につながりました。

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